「今の防水業界がこれでいいのか」「いい仕事をすること、社会的貢献をすることと、防水工事で利益をあげることは両立すべきだ」と考えるあなたに!

「日本書紀と瀝青」

日本書紀にみる防水の起源

ジオラマ

「日本書紀と瀝青」

献燃土与燃水

《天智天皇七年(六六八)七月》◆高麗従越之路遣使進調。風浪高。故不得帰。以栗前王拝筑紫率。』于時近江国講武。又多置牧而放馬。又越国献燃土与燃水又於浜台之下諸魚覆水而至。又饗蝦夷。又命舍人等、為宴於所々。時人曰。天皇天命将及乎。

防水の歴史を語る時、天然アスファルトに触れないわけにはいかない。そこで必ず出てくるのが「日本書紀には668年天智天皇即位の年に越の国から燃える水と燃える土が献上されたという記述がある」という表現である。

はたして本当にあるのか、どこにあるのか、ずっと気になっていたが、ついに見つけました。上がそれです。
燃える水はもちろん石油。一方燃える土は、瀝青(天然アスファルト)、時として石炭ないし泥炭だったであろうと解釈されています。

2010/04/08|ARCHIVES|

土瀝青を天智天皇に献上した故事を再現する「燃水祭」は「防水祭」?

7月1日「燃水・燃土」を新潟県黒川で採取。7月7日献上を模し滋賀県近江神宮に奉納。

献上
(画像をクリックすると拡大します)

防水関係者から高い評価を受けた「アスファルト防水のルーツを探ねて」の扉にはこの小堀鞆音(ともと)「燃土・燃水献上」の絵(日本石油30周年記念)が納められている。

新潟滋賀県人会の市井康三氏 (http://www.n-shigaken.com/nensuisai.html) によると、

…献上当時の天智天皇を祀る滋賀県の近江神宮では昭和58年時点ですでに毎年7月7日に「燃える水のお祭」が行われていました。昭和58年、近江神宮から献上地の黒川村に燃水祭の招待がありました。当時の伊藤孝二郎村長は、油坪で採油の式を催し、採油した原油を油坪の研究者で地元の錦織昇平さんと中村鉄雄公民館長に託して派遣し献上したのが始まりです。その後、毎年7月1日に黒川燃水祭を催し、7月7日の近江神宮の燃水祭に油を献上しています。

とのことです。

画像の説明
乾燥させたカグマ(シダの一種)に付着させ臭水(くそうず)坪から採集

画像の説明
燃土を担って献上行列

この燃土・燃水は7月7日、滋賀県大津市の天智天皇を祀る近江神宮に奉納されます。

近江神宮のホームページ http://www.bbweb-arena.com/users/oumijing/ トップに「燃水祭 7月7日齊行」として以下の通り燃水祭の内容が紹介されています。

日本最初の石油の記録は、1340年をさかのぼる、天智天皇の御代のことした。正月3日、新都大津宮において、御即位の式典を厳修せられた天智天皇7年(668年)の7月のことでした。
 

越の国 燃ゆる土 燃ゆる水をたてまつる

日本書紀はこう書き記しています。燃ゆる土『燃土』とは瀝青であり、『燃水』とは石油のことです。『越の国』は、現在の新潟県(RN編集長注:新潟県も含む)。なかでも現在の胎内市(旧黒川村)であったといわれます。黒川村は、昔、川の流れが黒くなるほど燃水が湧き出したことから、「黒川」の地名がついたと伝えられています。

その7月、越の国より採掘された燃水と燃土が天智天皇の都に献上されたのでした。科学技術を駆使され国づくりを推進された改新政治を象徴する記事といえます。

毎年7月1日、新潟県胎内市黒川において燃水祭が行われ、その折採油された原油が、6日後の7日、近江大津宮旧跡に鎮座する近江神宮燃水祭において、黒川からの使者により燃水献上の儀が、往時のままに厳修されています。さながら日本書紀の記述を再現するがごとくに。

そして全国石油関係者多数の御参列の中、石油業界の代表者の手により、ランプに灯をともして献灯の儀を行い、現代文明の基盤である石油への感謝の誠を捧げます。

平成22年4月、近江神宮御鎮座70年を期して改装し、「時計館宝物館」が新装開館した。近江神宮時計博物館は、わが国最初の時計博物館として、昭和38年日本の時刻制度発祥の地に設けられた。同館の解説によると、わが国の時刻制度は、天智天皇の御代に大津の都に漏刻(ろうこく)を設置し時を知らされたことに始まる。漏刻とは水時計のことであり、日本書紀には、鐘鼓を鳴らして時を知らされた、と記録されている。

漏刻(ろうこく)

三層に別れた枡より漏れ落ちる水の量により時間を計るわが国最初の時計。近江朝より平安朝末期まで全国の国府・鎮守府などに置かれ時間を知らせた。 垂揺球儀(すいようきゅうぎ)。

防水の原点とされる燃土といい、漏水で時間を計る日本最初の時計といい、近江神宮は、いや天智天皇は「防水」と縁の深い天皇ですね。

おっと、もう一つ。

秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ 我が衣手は 露に濡れつつ

この百人一首の最初の歌。尾崎雅嘉著、岩波文庫「百人一首夕話」の解釈によると…

稲の実りたる秋の田を、鳥獣に荒させじと、仮庵とて仮屋を建てて守り居るが、その庵を葺きたる苫の目があらき故、中にいる我らの袖が朝も夜も露に濡れつつして、苦労なる事ぞといふ心なり。

…とある。尾崎氏によれば、天皇は雨漏りで、自分の衣手=袖が濡れて、嫌だなあ、というのでなく、「土民になり代わりて」、詠んだ「百姓の苦労をいたはらせ給う叡慮の有難きなり」と解釈している。

天智天皇は「雨漏りして大変だね」と、心配してくれていた!!

これは縁が深いどころか、防水神社にお祀りせねばならぬかもしれない。

2010/07/05(月) 15:34:27|ARCHIVES|

防水業界関係者として「燃土」を献上したいものです。

天智天皇への「燃える水・燃える土=瀝青」献上を再現。7月7日 滋賀県近江神宮で行われました。

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黒川で採取した燃える水(臭水 くそうず)を献納する新潟県黒川村の代表者。

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各府県の石油商業組合の代表者がランプを持って献灯。

「日本書紀」《天智天皇七年(六六八)七月》◆高麗従越之路遣使進調。風浪高。故不得帰。以栗前王拝筑紫率。于時近江国講武。又多置牧而放馬。又越国献燃土与燃水。又於浜台之下諸魚覆水而至。又饗蝦夷。又命舍人等、為宴於所々。時人曰。天皇天命将及乎。

22010年7月7日、近江神宮で恒例の 燃水祭 が執り行われました。上の写真は近江神宮から提供いただいた、昨年の様子です。

防水工事の起源となる天然アスファルト・瀝青は、日本では「日本書紀」、世界では「旧約聖書」さらにメソポタミア、エジプトに遡ります。本サイトの「ARCEIVES」メニューからご覧ください。
また7月6日の記事で「防水と天智天皇との深いかかわり」を紹介しました。
http://www.roof-net.jp/index.php?%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80%E3%81%A8%E7%80%9D%E9%9D%92%E3%80%80%EF%BC%882%EF%BC%89

①日本書紀に記された「燃土-瀝青」献上。②漏水で時間を計る日本最初の時計。③百人一首の最初の歌「秋の田の――」で屋根から漏れる雨露を心配する。
以上の点で、天智天皇は防水と最も深いかかわりを持つ天皇であり、その天智天皇を祀り、燃水祭を行い、日本最初の時計博物館を持ち、百人一首競技かるたを扱った漫画「ちはやぶる」でかるたの聖地として登場する近江神宮は防水業界にとって特別な存在と思うのです。

近江神宮からは間もなく今年の燃水祭の写真をいただけることになっています。今年はTV取材はなかったそうですから、その写真が楽しみです。近江神宮の担当の方からは「貴ホームページの「日本書紀と瀝青」の記事も拝見させていただき、新たな知識を得ることができました。毎年石油の関係のお祭りを行っていて、石油関係者とお話しする機会があっても、「防水」ということに結びつけて考えたことはありませんでした」とご連絡をいただきました。

ルーフネットでは来年の燃水祭に合わせて防水の歴史ツアーを計画しています。

この燃える水と祭りに関して素晴らしくコンパクトにまとめられた国土交通省飯豊山系砂防事務所の記事があります。http://www.hrr.mlit.go.jp/iide/iide/culture2.html
少しだけ引用します。

※※※※※

現在でも黒川村下館の塩谷地内には油坪が多く残っていますが、このように早い時代に発見され献上されたのは含油層が浅くて、自然に原油が湧き出る状態になっており、人目につきやすかったからでした。

燃える水の発見という珍しい出来事でしたが、都から遠く隔たった北陸の一地方でのこと。通信手段もない古代においてはなかなか都までは伝わりにくいはずなのですが、燃える水が献上される20年前の大化4年(648)には越の国に磐舟柵がつくられ、都との往来も頻繁にあって、この珍しい燃える水のことは早くから知られていました。

「水が燃えるなどということは、一体有り得ることなのだろうか」
おそらく当時の都ではこんな思いを抱いて不思議がったのではないでしょうか。黒川の燃える水を見たい。それで天智天皇の即位に合わせて献上されたということなのでしょう。

時代は下って江戸時代、「北越雪譜」で知られる鈴木牧之も、その著述の中で石油のことを臭水とよび、越後七不思議の一つとして紹介しています。

黒川村の地名は、古くから黒い原油が流れていたことから黒川という地名がつき、中世においてこの地域を支配していた和田氏も、黒々とした燃える水が流れる川から姓を改めて黒川にしたと伝えられています。

この燃える水にちなんだ儀式も、滋賀県の近江神宮と黒川村で毎年行われています。天智天皇を祀る近江神宮では、「日本書紀」に記されている燃える水の献上地は黒川村であるとして、毎年7月7日に燃水祭を行っています。また、黒川村でも献上の故事にならって7月1日に燃水祭を催し、日本で最古といわれる油坪から採取した臭水を近江神宮に献上しています。この臭水を採取した油坪は国の史跡に指定されて、その場所である公園の名をシンクルトン記念公園と名づけています。この名は明治6年(1873)に黒川村に来て、原油の採掘技術を指導したイギリス人医師の名をとったものです。

2010/07/09(金) 09:00:00|ニュース|

日本書紀「燃土・燃水・・・」の近江神宮で防水業界の話をしてきました

燃水祭担当・権宮司 大木伸二さん(右)と、広報担当・権禰宜 岩崎謙治さん(左)

燃水2010-2

防水の起源を解説した防水業界の歴史図書を見ながら、話がはずみました。

平成22年7月22日、午後1時、外気温度37.5度。燃える空気をかき分けて、「防水の神様?※1」天智天皇を祀る大津京の近江神宮に向かいました。燃える土と燃える水、そして去る7月7日に行われた「燃水祭」のお話を聞き、写真・資料をいただくことになっていたからです。
(※1「越の国 燃ゆる土 燃ゆる水をたてまつる」 をチェックしてください!)

燃水2010-1

これがその時の写真。新潟県黒川「越の国黒川臭水(くそうず)遺跡保存会」胎内市教育委員会文化財主任による燃水奉献、6県の石油商業組合理事長による献灯。

今年、「日本書紀」の「越国より燃ゆる土と燃ゆる水とを献る」の部分を奉唱したのは、奈良県石油商業組合理事長の竹野徳之さんでした。
防水業界にとっても貴重な資料をたくさんいただきました。順次報告します。

これが燃水祭の次第です。

燃水祭次第
(画像をクリックすると拡大します。)

2010/07/22(木) 22:59:50|ニュース|

天智天皇は防水の祖神でもある

石油業界はかくして燃水祭の主役となった。
岡田晴夫さん談

近江神宮

燃水

毎年7月7日、天智天皇を祀る滋賀県大近江神宮で「燃水祭」が行われる。防水の歴史を語る時、必ず引き合いに出される「天智天皇に燃える土と燃える水を献上した」という故事に則り行われる祭典である。燃える土とは天然アスファルト。燃える水とは石油だ。

今年も「燃水祭」は盛大に執り行われ、石油業界から多くの人たちが参列、新潟県黒川から運んだ燃える水を奉献し、日本書紀の該当部分を奉唱した。石油業界にとって天智天皇は「石油の祖神」であり、「燃水祭」は業界人として「石油の祖神」に感謝の祈りを捧げ、業界の繁栄を祈願する重要な行事となっている。

しかし石油業界が「燃水祭」と深くかかわるようになったのは昭和53年からである。近江神宮がひっそりと斎行していた「燃水祭」がどんな経緯で盛大な「漏刻祭」と並ぶ程の祭典となったのか。
近江神宮のお許しを得て、先達となった岡田晴夫さんが近江神宮の記念誌に寄せた文章を紹介します。

※※※※※※

「燃水祭と私」岡田 晴夫(オルシード(株)代表取締役社長)
(平成2年、近江神宮50祭記念誌 掲載)

画像の説明
(写真は今年の燃水祭。石油業界は燃水ランプに点灯し感謝した。防水ならどうする?)

 確か昭和三十二年一月二日の夜だった。その頃既にテレビはあったが朝・昼・夜各二時間程度の放映で、関西地区ではまだNHKと民法一局しかなかった。当時大卒初任給一万円程度の頃に五〇万円もする高価格商品でとても手に入る品物ではなかった。又二日は新聞休刊日でテレビはなく読む新聞なく来客もなく寝るのもまだ早く、困っていた時ふと目に入ったのが当日初詣りの時買い求めた易の本であった。家相や手相を読んでみたり(お陰でその後初歩程度の家の方位等がわかるようになった)。毎月の暦をめくっていると、七月七日の摘要欄に七夕祭・近江神宮燃水祭とあった。

 私は石油業界に在籍しているので、燃水祭の意味は略々理解出来た。昭和二十八年正月に、家族と当時としては珍しいマイカーで京都方面に見物に行き、ついで琵琶湖を見ようと浜大津迄足を延ばした時、ふと左方を見れば大きな鳥居がある。近付けば近江神宮であった。先年訪れたあの近江神宮で燃水祭を斎行して下さっているのだなと漠然と読んだ。

 約二十年後の昭和五十三年六月、突然我が家に近江神宮から封書が届いた。開封すると燃水祭のご案内だった。瞬間二十年前の暦を思い出した。ずっと燃水祭は斎行して下さっていたんだな。然し参列に若干躊躇した。知り合いが誰も居ないので何か行きにくい気持ちを感じた。偶々同業で友人の深江浤太郎氏に話をした所、そんな立派な所で業界のお祭りをして頂いて居るのなら是非参列しようではないかと強くすすめられたので、恐るおそる参列した所、業界人は約十名、神宮の方は宮司様以下多数奉仕して居られる。斎行後直会に入ったら宮司様から巫女さん迄が丁重に接待して下され、お土産迄頂戴して帰路について。私は恥ずかしかった。

 神宮の方では、天智天皇の燃ゆる水献上の故事に則り、石油業界の為にこの様に厳かに毎年齋行下って居るのに、業界人が参列しないのは何事かと、この様な信心のない石油業界だからいつもまとまりの悪い業界と他業界から笑われて居る、これは何とかしなければと、誰に頼まれる訳でなく自分で密かに決心した。

 翌年大阪の同業の親しい友人にお願いしたら幸い賛同を得て、二〇数名の参列があった。以後折りある毎にお願いしている内に、石油海運業界・陸運業界・プロパン業界・給油所機械製造業界等からも参列頂き少しずつ増えてきた。五十六年当時日本石油(株)取締役大阪支店長松尾禎三氏(現在日石丸紅(株)社長)に話をしたら、〝知らなかった。石油元売会社の在阪支店長会に諮って来年から必ず出席する〟と協力を約された。五十七年から石油元売会社・近畿通産局資源部長、石油課長の参列を得て一廻り大きくなった。そして以後毎年参列者が増えて一〇〇名位になった。

燃水祭s53

 そして本年は大阪府石油厚生年金基金理事長孫田茂雄氏が、年金受給者の会である大阪石油年金  同友会(かつて或いは現在石油業界に在籍された方、されている方の会)に呼びかけて下され、一五〇名も連れて来て下さった。お陰で本年の斎行は例大祭・ご鎮座祭並みのスケールとなり、時計業界の漏刻祭が非常に盛大であると聞いて居たので、漏刻祭並みいやそれ以上にと望んだ目標に近づいた。

 これの大方の諸賢のご賛同と神宮側のご指導の賜物と感謝して居ります。今後も増々精進して、より燃水祭の知名度を上げ、全国よりお参り頂ける立派な祭事になる様励みたい次第です。

2010/09/01(水) 01:46:10|ARCHIVES|

前田青邨も描いた「燃ゆる水献上の図」

近江神宮広報誌「滋賀」第240号。
昭和63年7月1日発行の表紙で紹介された画。

前田青邨
天智天皇に燃える土「瀝青」と燃える水(石油)を献上したという、日本書紀の1シーン。

手前左に甕に入った「燃水」を運ぶ2人。その後ろに「燃土」らしきものを担ぐ姿が見える。この描き方は小堀画伯による、あの有名な画と同じですね。

前田 青邨(まえだ せいそん、1885年1月27日 - 1977年10月27日).
岐阜県中津川市生まれ。日本画家。妻は荻江節の5代目荻江露友。歴史画を得意とし、大和絵の伝統を軸に肖像画、花鳥画までいく作域を示した。特に武者絵における鎧兜の精密な描写は、有名。文化勲章受章。院展を代表する画家。 晩年には、法隆寺金堂壁画の再現模写や高松塚古墳壁画の模写等、文化財保護事業に携わる。その遺志は、弟子の平山郁夫に引き継がれた。

2010/09/06(月) 00:51:59|ARCHIVES|

新作!いや贋作? ちょっと驚いた「燃土・燃水献上の図」

「日本書紀と瀝青」余話
一見したところ小堀画伯の「燃土・燃水献上の図」

看板

よく見ると細かい部分の描き方が明らかにちがう。贋作?いやそれより、文字の書き込みがあるではないか!

これも近江神宮広報誌の平成3年7月の機関誌「滋賀」に掲載されていたもの。小堀筆とあるのに、何かアニメっぽい。よく聞けば、燃水祭のためにこの時、原図をもとに2メートルくらいの看板をつくったらしい。だから文字も書き加えられている。その看板はもうないそうだ。

2010/09/09(木) 09:21:31|ARCHIVES|

日本の防水の原点「日本書紀~燃土燃水献上図」を見に行こう!

東京六本木泉屋博古館で天智天皇・燃土燃水献上花盛器(彫金)展示。

10月16日~12月12日

花器アップ

左が燃水(臭水くそうず=石油)を入れた甕、真中が燃土=天然瀝青。新潟県黒川で採掘し、これから大津の近江宮の天智天皇に献上する。ご存知小堀鞆音(ともと)の「燃土燃水献上図」の図柄を模している。

花器全体
塚田秀鏡:銀地赤銅朧銀素銅象嵌片切彫
直径42.8センチ。高さ39.3センチ。清水三年坂美術館所蔵

防水の歴史研究会から、お知らせがきました。
六本木一丁目駅徒歩2分にある、泉屋博古館で、防水関係者必見の展示会とのこと。

解説

彫金作品で歴史的事実をモチーフにしたものは珍しいそうですよ。
日本防水の歴史研究会によると、この花盛器の絵柄の基になった小堀鞆音の日本画は、日本石油創立30周年を記念して依頼されたことになっている。日本石油は「1917年(大正6年)5月5日に東京両国国技館で創立30周年記念式典挙行」という記録がある。したがって秀鏡がその画を見て制作したとなれば、「燃土燃水献上花盛器」は塚田秀鏡最晩年の作品ということになる。

2009.919-11.23 横浜開港150周年記念・横浜美術館開館20周年「大・開港展」図録より

2010/09/17(金) 09:05:52|ARCHIVES|

防水関係者のための美術講座 彫金

日本書紀と瀝青 余話 その2
撚土(瀝青)献上図 彫金作品鑑賞の前に

塚田秀鏡 彫金

10月16日~12月12日 東京六本木泉屋博古館で天智天皇・燃土燃水献上花盛器(彫金)展示
塚田秀鏡:銀地赤銅朧銀素銅象嵌片切彫
直径42.8センチ。高さ39.3センチ。清水三年坂美術館所蔵

作品については9月17日の以下の記事を見て下さい。
日本の防水の原点「日本書紀~燃土燃水献上図」を見に行こう!

塚田 お墓

塚田秀鏡(つかだしゅうきょう)
嘉永元年~大正7年12月29日(1848-1918)
江戸(東京都)出身。号は真雄斎。明治大正期の彫金界の巨匠。父、上州館林秋元藩の藩士で和泉流鞘巻の大家(彫金家)土肥義周(よしちか)(二男)。東京神田出身。養父、鐸師塚田直鏡(つかだなおかね)。幕末に近世金工界に賛嘆たる足跡を遺した加納夏雄に師事。絵画を柴田是真(しばたぜしん)に学ぶ。26 歳で天皇太刀の彫刻。明治14年(1881)第2回勧業博に鉄地に蟹を彫った作品でセントルイス博覧会で金賞。明治23年(1890)に皇室による美術作家の保護と制作の奨励を目的として制定された「帝室技芸員」の工芸分野の一人に選出。湯島の自宅で没。71歳。代表作に「鶺鴒躑蠋図煙草箱」など。塚田秀鏡の墓地は谷中にある。

  • 彫金て何?
    彫金(ちょうきん)は、宗教関係の金工品をはじめ、室内の飾(かざり)金具や襖(ふすま)の取手(とって)金具などの建築関係、装身具、家具などの金具、鎧(よろい)や兜(かぶと)などの武具等、に用いられてきた。江戸時代には、彫金技法は高度に発達し、特に刀装(とうそう)金具は、幕府や藩の手厚い庇護のもと優秀な工人が育ち、複雑で多彩な技法による繊細で優れた作品が生み出された。
    明治になると、これまでの庇護者層が没落し、彫金界は大きな変革を迫られた。鐔(つば)や目貫(めぬき)、小柄(こづか)などの刀装金具は、廃刀令(はいとうれい)などによって彫金家たちの主要な活躍の場であった需要がなくなったからである。
  • 「片切彫」について

    白石和己 山梨県立美術館長の解説です。
    明治の困難な時期に、新しい表現を開拓して活躍した彫金家に加納夏雄(かのう・なつお)がいる。彼は江戸から明治にかけての第一の名工といわれ、片切彫の技法を得意とした。片切彫は肥痩(ひそう)のある線が表現できる技法で、円山四条派風(まるやましじょうは)の図を、筆跡よく金属に表し、花瓶(かびん)や額(がく)などの大作から帯留(おびどめ)、煙草(たばこ)箱などの小品にいたるまで各種の作品を制作した。1890年(明治23)には初の帝室技芸員となった。塚田秀鏡(つかだ・しゅうきょう)、香川勝廣(かがわ・かつひろ)ら明治の代表的彫金家は、ともに彫金を加納夏雄に学び、絵画を柴田是真(しばた・ぜしん)に学んだ。

2010/10/03(日) 09:00:01|ARCHIVES|

小堀鞆音(ともと)「燃土燃水献上図」刺繍作品発見の経緯

新バ―レックス工営(株) 丸山功会長に聞く

  • 画像はクリックすると拡大します。

「燃土燃水献上図」刺繍作品
小堀鞆音原画「燃土燃水献上図」刺繍作品 


献上のため近江宮に運ぶ
燃土(瀝青)献上のため近江宮に運ぶ


献上のため近江宮に運ぶ
燃土(瀝青)部分の拡大

縦30センチ、横45センチの刺繍作品。日本書記の記載にある「天智天皇に越の国から燃える土(瀝青)と燃水(石油)が献上された」という故事を描いた小堀画伯の「燃土燃水献上図」を忠実に再現している。

これは5年前に死去した、松本工業㈱の佐藤健二社長の妻とよ子さんが、防水業界の歴史に詳しい新バ―レックス工営の取締役会長に遺品として額装し贈呈したもの。

丸山さんによると「主人の亡父が大切にしていたが、主人は気にも留めずシミだらけにした。主人が亡くなった後、そのことを思い出した。私が持っていても仕方無いので、もらってほしいと思い額装した」そうだ。

丸山さんはルーフネットのサイトで小堀画伯の絵を見て同じ画柄であることから、入手経路を尋ねたところ、「義父が日本橋の方の会社からもらったらしい」とのことだった。

「日本石油が30周年記念事業の一環として小堀鞆音画伯に日本書紀の天智天皇への瀝青献上の絵を依頼したということであるから、この織物も、日石の関係でつくられ、配られたのかもしれない。でも私は画のことも、織物のことも全く聞いたことが無い。ご存知の方がいたら、教えてほしい」

と話していた。

2010/10/06(水) 16:17:19|「日本書紀と瀝青」|

アスファルト(瀝青)・原油の起源は日本書紀で

「日石50年」

昭和12年に日本石油が発行した記念誌「日石50年」

橋本圭三郎社長は「巻頭に題す」で

「草創当時、山師(やまし)仕事と賤(いや)しまれた此の事業も、今では国防上に、産業上に、また交通上に、重大な役割を演じ、その消長は直ちに国運の隆替(りゅうたい)と相関するやうになった。

…と述べている。

そして本文第1ページ「創業と第1次進展」の章は、いきなり

日本書紀に依ると、天智天皇の七年(今より1269年前)七月の條に、越の国より燃土燃水を献ず、とある。燃土はピッチかアスファルトであろう。燃水は原油に相違ない。之れ我が国の石油に関する最古記録である。然るにその後約六百年、絶えて文献の徴すべきなく、

…と始まる。

画像の説明


大協石油
昭和55年に発行された「大協石油40年史」(現在のコスモ石油)

こちら第1ページの序章はこう始まる

大協石油の発祥の地は新潟県である。新潟県はまた、我が国石油産業の誕生の地であり、天智天皇の7年、西暦668年に越の国から「燃ゆる土、燃ゆる水」を献上したという日本書紀の記述は有名であるが…

「大協石油40年史」

そして両社とも、すでに本「ルーフネット」のサイトで紹介しているように、創立30年の際に、日本画の大家に「燃土・燃水献上」の画を依頼している。
創立の記念誌が「日本書紀の燃土・燃水から始まり、創立30周年事業として、大家に画を依頼する。防水業界にアスファルトを供給していた石油会社は、この「688年天智天皇7年越の国より…」の故事をいかに重要視していたかがうかがえる。

残念な現実:日本書紀に記載は「燃土燃水献上」である。燃土は瀝青、燃水は原油。画は「燃土・燃水献上図」。燃土「瀝青」が先に書かれている。でも近江神宮の祭りは「燃水祭」。石油業界の人たちが、祭りをもりたてる。近江神宮の宮司さんに防水業界とのかかわりを話した時、「そんな業界があるのですね」と驚かれた。

大協石油の記念誌では、もう1枚ページをめくると、前田青邨画伯による画が現れる。

前田青邨


彫金

10月16日より六本木。泉屋美術館で展示中。

  • 10月16日~12月12日
  • 東京六本木泉屋博古館で天智天皇・燃土燃水献上花盛器(彫金)展示
    塚田秀鏡:銀地赤銅朧銀素銅象嵌片切彫
    直径42.8センチ。高さ39.3センチ。清水三年坂美術館所蔵

防水の歴史研究会の調査では、この作品は小堀画伯の「燃土・燃水献上図」を極めて忠実に写しており、制作年代は塚田秀鏡最晩年、没年もしくは前年と推定される。
2010/10/21(木) 00:00:26|ARCHIVES|

日本書紀・燃土燃水献上ジオラマ。新潟黒川村伝習館

瀝青(天然アスファルト)を天智天皇に献上
ジオラマ小堀画伯の「燃土燃水献上図」が黒川郷土文化伝習館に

黒川村伝習館

新潟県胎内市黒川郷土文化伝習館のジオラマ。
小堀画伯が日本石油の依頼により、日本書紀の天智天皇への「撚土「瀝青)・燃水(原油)献上」の故事にちなんで、画いた、あの有名な画をもとに制作されたジオラマ。原図とは逆アングルになっているのに注目。

ポスター

←このポスター下部の画が小堀画伯による「撚土・燃水献上図」。この図の下絵(下画き)は東京芸術大学が所蔵している。

シンクルトン
(画像をクリックすると拡大します。)

毎年7月1日、「臭水」(くそうず、原油)を黒川村から古式に則り採油し、この画の装束で運ぶ。オリンピックの聖火よろしく7月7日、天智天皇を祀る近江神宮に献上する。石油業界の関係者は、この日本書紀に記録を自らの事業の起源と位置付け、「燃水祭」に大勢参加する。

防水の歴史研究会による黒川郷土文化伝習館・シンクルトン記念館ツアー計画中です。

2010/10/26(火) 08:20:57|ARCHIVES|

平成22「年度」燃水祭祭典のご案内

石油業界は毎年、「アスファルトと石油の祖神」に対して感謝し「石油業界の守護と発展」を祈願している

燃水祭祭典のご案内
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燃水祭

燃水祭祭典のご案内 文中「燃える土とは今いう泥炭であり…」とある。近江神宮の広報誌「志賀」においても燃える土は、瀝青、石炭、泥炭、など表記は一定しないが、平成2年発行の「志賀」第264号の1面で吉田健一宮司は「燃ゆる土とは天然アスファルト」と書いている。一刻も早「燃土=天然アスファルト」という認識を定着させたいものである。

平成22年度 近江神宮燃水祭 参列者名簿

燃水祭参加者
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個人情報を考慮し氏名は削除しました。

2010/10/28(木) 09:00:41|ARCHIVES|

天下の名人塚田秀鏡と防水とのかかわり

世界が驚嘆した明治の超絶技巧

「天智天皇への瀝青献上図」花盛器は第一展示室の中央ケースに鎮座

ポスター

日本書紀の天智7年(668年)に、越の国(今の新潟県)から燃える土(瀝青)と燃える水(原油)が献上された、と記載されている。明治・大正期の歴史画家小堀鞆音(ともと)は、日本石油から同社創立30周年事業の一環として依頼され、これをモチーフとした画を残している。塚田秀鏡の最晩年のこの作品は小堀の画を極めて忠実に写している。
石油業界は日本書紀の記述を自らの業界の起源とし、日本石油は創立30周年記念にこの画を小堀鞆音画伯に依頼し、大協石油(現コスモ石油)はやはり創立30周年記念として前田青邨に同じテーマの画を依頼した(紹介すみ)。「燃土燃水献上図」は古代から接着、防水などに使用されていた燃土=瀝青=天然アスファルトを出発点とする日本の防水業界にとっても、業界の起源と考えられる。

泉屋展示室

塚田秀鏡の作品は小堀鞆音の原画の人物の衣装・表情まで忠実に再現しており、防水関係者はそれを間近に見ることのできるこの機会をお見逃しなく。

燃土燃水献上図花盛器

花器

注:小堀の「燃土燃水献上図」の下画は東京芸術大学が所蔵しており、「大正3年博覧会のため」、とある。この下画は来週紹介します。さて日本石油の盛大な30周年行事はその3年後の大正6年1917年5月5日。1918年に没した秀鏡はいつ原画を見たか?芸大蔵の下絵の「博覧会」とは?

2010/10/29(金) 22:42:09|ARCHIIVES|

日本書紀の燃土「瀝青(アスファルト)献上」。塚田秀鏡はこう彫った

日本書紀、天智天皇に献上したのは燃土(瀝青=天然アスファルト)と燃水(=石油)。
防水の起源を間近で見られるチャンス

アップ

展示室
六本木泉屋博古館の許可を得て撮影しました。

天智天皇と防水に関してはメニューの「日本書紀と瀝青」をクリックしてください。
 画像の説明

ルーフネットの仮説 其の2
塚田秀鏡のこの作品「燃土燃水献上図花容器」は最晩年の作品で、かつこのテーマとなる献上図を残すための記念作品として依頼されたものではないか。

最晩年の作品であることは、『日本の防水の原点「日本書紀~燃土燃水献上図」を見に行こう!』に示した。

彫金作品をじっくり鑑賞する機会はこれまで少なかった。もちろん塚田秀鏡なんて名も知らなかった。今回まじかに作品を見て、その精密かつ強靭な線に驚きました。人物の表情など小堀鞆音の原図よりリアルな気がする。そして同時に展示されている塚田の他の作品と比較したとき、この献上図花容器は作品の完成度として一歩譲るのかな、と感じてしまいました。絵柄に対して花容器がずいぶん大きいのです。人物の彫りは見事なだけに、気になる。モチーフの方にウェイトがかかっていますね。そう言えば特別に大きい作品なのに、ポスターには採用されていない。
学芸員によるギャラリートークの際「花容器は、これまでの作品に比べて、かなり大きい、おそらく輸出用を想定している。通常こうした作品は一対で製作されることが多い…」と解説していた。おそらく秀鏡は、この絵を表現することに主眼を置いたのではないでしょうか。

2010/11/14(日) 23:42:00|ARCHIVES|

「塚田秀鏡」はなぜ「燃土燃水献上図」を彫金作品に写したのだろう

清水三年坂美術館村田館長に聞いてみました。

塚田秀鏡燃土燃水献上図

泉屋博古館と三年坂美術館の許可をいただいて撮影した「塚田秀鏡作・燃土燃水献上花容器」の一部(燃土=アスファルト)を担いでいるところ。
原画は小堀鞆音の「燃土燃水献上図」。同じ部分を拡大した図と比較すれば、写しであることがよくわかる。

小堀鞆音燃土燃水献上図拡大

日本書紀の天智7年(668年)に、越の国(今の新潟県)から燃える土(瀝青)と燃える水(原油)が献上された、と記載されている。明治・大正期の歴史画家小堀鞆音(ともと)は、日本石油から同社創立30周年事業の一環として依頼され、創立30周年の3年前、大正3年に開催された、東京大正博覧会開催に合わせて、完成している。塚田秀鏡の最晩年のこの作品は小堀の画を極めて忠実に写している。石油業界は日本書紀の記述を自らの業界の起源とし、日本石油は創立 30周年記念にこの画を小堀鞆音画伯に依頼し、大協石油(現コスモ石油)はやはり創立 30周年記念として前田青邨に同じテーマの画を依頼した(紹介すみ)。「燃土燃水献上図」は古代から接着、防水などに使用されていた燃土=瀝青=天然アスファルトを出発点とする日本の防水業界にとっても、業界の起源と考えられる。

三年坂美術館パンフ

塚田秀鏡の燃土燃水献上図花容器は、京都の清水三年坂美術館の所蔵。現在佐野美術館で展示されている。
三年坂美術館の館長で幕末明治の工芸の世界的なコレクターである村田理如さんにお聞きしたところ「塚田秀鏡の燃土燃水献上図花容器が、作られた経緯はわからないが、小堀鞆音のその絵は当時話題になっていたのではないか。金工・七宝作品で、著名な絵画を写すことは珍しいことではなかった」とのことでした。

防水の歴史を探る「ルーフネット」は日本の世界の防水に関する記録の初見を求めて日本書紀や聖書などを調べています。(日本防水の歴史研究会)

2011/02/08(火) 23:58:09| 未分類|

小堀・燃土燃水献上図の謎解き

芸大所蔵、小堀「燃土燃水献上」下図

下絵
東京芸術大学所蔵。
小堀鞆音(こぼりともと1864-1931)「天智帝朝越国燃土燃水/下図」
71.2×99.3。裏面に「大正三年博覧会出品画」と記されている。

「東京芸術大学百年史」第2巻の大正3年の章に「東京大正博覧会」に関する以下の記載がある。

東京大正博覧会
大正三年三月二十日より同年七月三十一日まで上野公園を中心会場として東京府主催の東京大正博覧会が開催され、本工教官の中にも美術部の審査に加わった人が多かった。
(編集部注:高村光雲教授、黒田清輝教授らと並んで小堀鞆音教授ら17名が審査官を嘱託された)
この博覧会は上野公園と不忍池畔にセセッション式や東洋式の展示館が数多く建てられ、東京府を始め北海道庁、二府四十二県、各省官立諸学校、研究所、試験所、台湾朝鮮両総督府、関東庁、樺太庁、諸外国が出品するという大規模なもので有ったが、美術の部門はあまり振るわず、日本画で平福百穂の「鴨」(六曲半双)が、西洋画で新帰朝者太田喜二郎の「赤い日傘」、彫刻で同じく新帰朝者水谷鉄也の「スペインの踊り子」などが注目されただけであった。本校としては教育学芸館に校名額一、敷地建物平面図一、校舎および各教室写真十一を出陳した。

大正博
東京大正博覧会会場(美術館)

小堀鞆音が「燃土燃水献上図」の下図を出品するはずはないから、完成した「燃土燃水献上図」を出品したはずだ。すると出品したが賞も受けず、注目もされなかったのだろうか。

小堀は審査員であるから、賞の対象からは除外するので有ろうか? 

それとも出品するつもりで下図までは画いたが、何らかの理由で出品しなかったのか? 

もうひとつ考えられるのは、この博覧会には日本石油が全社を挙げて展示に注力した。「燃土燃水献上図」は日本石油の展示コーナーに出品されたのか?しかし日本石油が創立70周年で作った記念史の「東京大正博覧会出品一覧」の中に、この画の名はまだ見つけられない。

そもそも大正3年では「日本石油創業30周年を記念して依頼した」という説と相応しない。30周年はその3年後、大正6年であるから。

2010/11/29(月) 20:05:42|ARCHIVES|

大正3年刊「日本石油史」で初見? 小堀鞆音の燃土燃水献上図

「燃土燃水献上図」完成はやはり大正3年。

装丁1

これが入手困難な、日本石油史。大正3年。おそらく東京大正博覧会にあわせて発刊されたもの。
この中にカラー見開きで小堀鞆音(こぼりともと)による「燃土燃水献上図」が掲載されている。

日本石油史小堀鞆音

防水の歴史を探る「ルーフネット」は日本の世界の防水に関する記録の初見を求めて日本書紀や聖書などを調べています。「日本防水の歴史研究会」

2011/02/09(水) 15:39:57|ARCHIVES|

燃土燃水研究の貴重書、入手!

献上地が黒川村であることの決めてになった本
燃土が瀝青であることも解説

錦織

日本書紀に記された天智天皇への献上地として有力候補は3か所あった。その中で黒川村が抜きんでたのは、この編者である錦織平蔵さんや、戦前の郷土史家金塚友之丞氏らの研究成果による。「燃ゆる水燃ゆる土献上地の研究」は昭和58年に錦織さんがまとめた、貴重な資料である。
11月30日シンクルトン石油記念館のシーズン最終開館日に訪問し、教育委員会の担当者Iさんから、話を聞くことができた。それは本サイト内メニューの「日本書紀と瀝青」のコーナーで順次詳しく紹介してゆきます。

Iさん
敷地内に残る臭水坪(石油井戸)を案内していただいたい教育委員会のIさん。

2010/12/02(木) 17:06:52|ARCHIVES|

日本の防水の原点を求めて「燃土燃水献上の地・黒川村」へ

pokopoko
シンクルトン石油記念館の周辺ではあちこちで天然ガスが浸み出し「ポコポコ」音を立てている。

油坪
原油が浸み出す油壺。毎年ここから採取され、近江神宮に献上される。

シンクルトン
記念館担当の伊東さん。

伊東さんが3年前(2007年)「新潟県石油産業遺産の活用を考える」シンポジウで胎内市代表で報告した資料を紹介します。

―石油産業近代化遺産を活かしたまちづくり―

新潟県胎内市  黒川油田
胎内市教育委員会主任 伊東崇(いとう・たかし)

新潟県胎内市の沖合い4㎞の所に海上油田「岩船沖油ガス田」が現在も稼働しており、海上にそそり立つ煙突からは独特の炎が燃え上がるのをみることができる。遥か太古の時代から現在まで、原油と人々あ関わってきた歴史がここ胎内市にもある。

  1. はじめに
    胎内市は新潟県の北部に位置し、旧黒川村と旧中条町とが合併してできた人口3万4千人弱の新しい市である。海から山まで豊かで変化に富む自然を有し、縄文時代から人々は豊かな自然資源を利用してきた。
    黒川油田は、古くは688年天智天皇の時代から昭和55年まで営まれた日本最古の原油献上油田といわれ、その場所は日本海東北自動車道の終点、中条ICから国道7号線を北へ車で15分ほど走らせた旧黒川村山間部の閑静な森の中にある。現在は黒川石油公園・シンクルトン記念館として整備されている。今回は黒川油田における、石油産業近代化遺産を活かしたまちづくりについて考えていきたい。
  1. 黒川油田の歴史
    黒川油田は今から1300年以上前の688年、日本書紀に「越の国、燃える土(アスファルト)、燃える水(原油)とを献ず」と記され、ここ黒川をふくめた越の国から原油を天智天皇に献上したことを伝えている。黒川村の「黒川」という地名も、ここに原油(臭水:くそうず)が湧き、川を染めてていたことに由来するといわれている。黒川の油田が歴史上に初めて登場するのは、1277年の古文書(高井道円譲状)や同時期の絵図(奥山荘浪月条近傍絵図)にある「くさうつ」「久佐宇津」にみられる地名である。
    江戸時代になると黒川の臭水に関する記録が多くみられる。①元和7(1612)年村上藩主堀丹後守直寄の臭水寄進、②正徳3(1713)年『和漢三才図会』に於ける天智天皇7年燃える水献上地黒川の推定、③天明6(1786)年橘南谿『東遊記』に於ける越後七不思議の一つとして、④文化3(1806)年の『越後巡見記』によるカグマによる採油の記録、⑤文政2(1828)年の『産業事蹟』にみられる黒川臭水の江戸での販売などがあげられる。当時臭水坪は50ほどあり、臭水は灯明用のほか、農地の防虫、川舟の防水などに使われた。
    1. 明治における黒川油田の開発
      江戸時代まで臭水坪の拡張や水平堀による採油方法を続けていたが、明治6(1873)年、イギリス人シンクルトンが黒川に訪れ、手掘りの井戸に木枠をはめて掘る方法を伝授した。この原油含有層まで安全に掘り進む井戸が成功したことにより黒川に手掘り井戸が成功したことにより黒川に手掘り井戸が一気に増え、一定量の原油採掘を可能にした。このシンクルトンの指導で掘られた井戸は「異人井戸」と呼ばれ、今でも石油公園に残っている。その後、明治9(1876)年のアメリカ人ライマンの調査や、塩小路光孚(しおのこうじみつざね)が中条町に黒川の臭水を利用した鉱油所をつくり日本最初の灯台用石油として販売したが、その後の乱掘などにより黒川油田は明治20年頃に一時減少し、明治26年頃から効率的な上総堀や機械堀りを導入して採油量を盛り返したが、やがて減少し、明治の終わり頃には衰退していく。
    2. 昭和の最盛期と衰退
      昭和13年頃から北越石油(株)、中野鉱業(株)、越後石油鉱業組合などが採掘し、また昭和16年頃から帝国世紀油、大同石油など大企業の本格的採油により無数の石油掘削櫓が建ち並ぶようになり、昭和17年頃黒川油田は最盛期を迎えた。当時、塩谷から平木田駅までパイプで原油を送油し、日石新潟製油場まで運ばれた。昭和19年太平洋戦争中、工兵隊が黒川小学校に駐屯して、黒川坂下で原油を採掘、昭和20年頃には胎内川沿岸で帝国石油、日本石油が採掘した。戦後は吉川石油が採油を行っていたが、昭和30年頃から産出量も不足し、外国輸入が増加したことから衰退していく。昭和34年~52年まで地元黒川小学校の給食燃料に、また漁船燃料として使用されたが、昭和55年頃には黒川油田は終焉した。
  2. 黒川油田の保存と現状
    黒川油田の終焉により、一時は100箇所近くあった石油採油櫓や井戸が次々と解体された。平坦地は水田耕作などによりすべて撤去され、山間部の堅井戸などもすべて埋設される運命であった。しかし地域の人々がこの消滅する油田跡が歴史的遺産として大切なものであると認識し、また地域を潤し、黒川村を発展させたことに対する黒川油田への恩返しとして、保存し、後世に伝えていくこととなった。山間部の堅井戸跡や、油坪などは地権者と協議し、黒川村で管理し、整備することとなった。
    昭和12年の金塚友之丞氏の研究や、その後の地元地域の人々の研究や保存意欲により、昭和53年に臭水油坪が黒川村の文化財に指定された。昭和55年には黒川油田に関する資料を展示した黒川村郷土伝習館(現胎内市黒川郷土文化伝習館)が開館し、現在も油田の歴史を模型や写真で紹介している。昭和58年には錦織平蔵氏により『燃える水 燃える土 献上地の研究』がまとめられた。その研究成果が滋賀県近江神宮にも認められ、この年近江神宮の「燃水祭(ねんすいさい)」に招待され参加し、以後黒川でも毎年7月「黒川燃水祭」を実施するようになる。このように地域で産業遺産の保存や伝承が進められていった。
  3. 原油の特徴と独特の採油方法
    黒川油田の原油は黒褐色で粘調、比重0.920の重質で、戦時中は主に潤滑油に使用された。油と噴出するガスはメタンが主成分で二酸化炭素を多く含む。
    黒川村では、含油層が地表近くにあるので、臭水が自然に湧き出て窪地に溜まるという地形上の特色がある。この窪地はむかしから「坪(つぼ)」と呼ばれてきた。それぞれの坪に名称がつけられ、黒川石油公園にあるものは岩坪と呼ばれた。坪からの採油にはカグマを使った黒川村特有の方法を用いた。カグマは常緑性のシダ類を束にして乾燥させたもので、これを坪にひたして水面に浮いた臭水を採り、手でしごいて桶に臭水を溜めていく臭水採油用の道具である。この黒川独特の採油方法は機械掘りが行われた昭和20年頃まで続いた。
    江戸時代には黒川の人々は、原油は神からの授かりものと考え、村の共有産物として村人全体で協力し坪をつくり油の管理をした。明治以降は個人または組合の小企業が採油し、農家のサイドワークとしても採油が行われた。昭和に入っても大企業が参入するまでは、組合で決められた日に採油が行われた。地下水位が高いため、井戸を掘る際に地下に掘った横マブという排水溝も特徴といえる。
  4. 施設の概要
    1. 黒川石油公園
      昭和60年に黒川石油公園が黒川油田跡地の森の中に整備された(面積 8,250 ㎡)。公園内には明治期にシンクルトンが指導して掘った堅井戸や、排水溝、それ以前の古い油坪などが保存され、黒川油田の繁栄を示す建造物として、石油掘削櫓を模したシンボルタワー、東屋、遊歩道なども設置され、採油用のカグマを栽培する展示畑もつくられた。公園内では現在も天然ガスがポコポコ吹き出る様子や、池や井戸から臭いを漂よわせながら湧き出る原油をみることができる。この黒川石油公園が整備された年、アラブ首長国連邦駐日大使が黒川石油公園を訪れ、またその3年後、黒川村長がアラブ首長国連邦に訪問し国際交流を深めている。平成4年には黒川の臭水(4,822㎡)が新潟県の天然記念物に指定され、さらに平成6年には考古学的な価値が認められ国の史跡に指定された。
    2. シンクルトン記念館の概要
    • 建設年次:平成8年
    • 建設費用:158,000千円
    • 事業名称:新山村振興農林漁業対策事業
    • 建物構造:鉄筋コンクリート造1階建
    • 施設内容:第1展示室 石油資料館、第2展示室 ハイビジョンシアター
      室内展示の概要は、古代~現代までの臭水と共に生きた人々の歴史を紹介。石油関係民具の実物展示、イラスト・写真・模型などにより展示、説明をしている。はハイビジョンシアターでは臭水と人との関りを学習体験できる。またこの地方独特の臭水の採油方法や、黒川燃水祭の様子も紹介している。入口ロビーにはアラブ首長国連邦児童絵画の作品も鑑賞できる。過去の歴史だけではなく、石油の現在、さらには未来の地球環境の認識も深めてもらうような展示がされている。
  5. 活用方法・取り組みについて
    シンクルトン記念館、黒川石油公園は現在市直営で管理・運営している。当初所管については、旧黒川村では商工観光課が、町村合併し胎内市となってからは教育委員会生涯学習課が所管し、文化施設として位置づけている。平成18年には文化施設8館の共通利用券をスタートし、相互利用を図っている。
    臭水油坪が国史跡「奥山荘城館遺跡」の一部であり、旧黒川村、旧中条町、旧加治川村にまたがる事から史跡めぐりなどを広域的に行ってきたが、黒川油田の活用で最も大きいものは次にあげる「黒川燃水祭」と、市で取り組んでいる「胎内型ツーリズム」での活用である。
    1. 黒川臭水遺跡保存会の取り組み
      「越の国より燃える水を献上する」という日本書紀の記録をもとに、毎年7月1日に、古式にのっとった伝統儀式「黒川燃水祭」が地元保存会と市により黒川石油公園で開催されている。保存会のメンバーは、かつて地元で採油に関わってきた人々が中心である。この黒川燃水祭は昭和58年から実施され、石油業界関係者、地域住民、市内小学校など毎年100名以上が参加し、「採油の儀」、「点火の儀」、「清砂の儀」など一連の伝統儀式を実施したあと古代装束をまとった保存会メンバーが街中で献上行列を行う。また黒川で採油された燃える水(原油)は、7月7日に天智天皇が祀られている滋賀県の近江神宮の献上され、引き続き近江神宮で燃水祭が執り行われる。
    2. 胎内型ツーリズム(教育旅行資源として)
      市内学校による「ふるさと体験学習」や県外都市生活者、学校による宿泊体験プログラム「胎内型ツーリズム」の中で黒川油田は活用されている。施設所管の教育委員会と「胎内型ツーリズム」を担当する農林水産課が連携して地元農家の宿泊なども斡旋した事業を進めている。東京などからの修学旅行のコース、海外留学生の体験コースなどにも組み込まれており、訪れた生徒は黒褐色の原油が湧き出る池や、地上からのメタンガスの噴き出る音を聞いて「こんな所が日本にあったのか」と驚いている。黒川独特の採油道具「カグマ」づくりや、カグマによる採油体験、火起し器を使用した臭水の点火体験なども実施している。
  6. おわりに
    以上、黒川油田の歴史、活用の様子を簡単に紹介してきた。シンクルトン記念館は開設以来12年が経ち、この間見直し計画が何度か検討されてきた。これからも参加者が記念館に何を求めているか常に把握して、石油が昔から現在まで国民全体の貴重な資源であることを理解していただくよう努力していきたい。また今後も、遺跡の保存環境に注意を払いながら、関連資料の収集に努め、地域文化の集積、発信拠点としていきたい。
    町村合併して消えて行く地名、合併したことにより改めて「黒川」の名前を大切に想うようになり、黒川地名の由来となったこの油田を保存することの重要性を感じている。
  • 引用・参考文献
    • 日本石油(株)(1958)『日本石油史』
    • 黒川村誌編纂委員会(1959)『黒川村誌』
    • 長誠次(1970)『本邦油田史』石油文化社
    • 黒川村教育委員会(1991)『黒川病院建設計画地域の遺跡分布調査結果報告書』
    • 帝国石油(株)帝国石油社史編さん委員会(1992)『帝国石油50周年史技術編』
    • 片野徳蔵(1996)『やさしい郷土史 黒川村発展のあゆみ』
    • (株)郷土出版社(1998)『図説新発田・村上の歴史』
    • 日本石油(株)日本石油精製(株)社史編纂室(1988)『日本石油百年史』
    • 黒川村のあゆみ編纂委員会(2005)『黒川村のあゆみ閉村記念誌』
    • 新潟市(2008)『新 新潟歴史双書3 石油王国・新潟』

2010/12/12(日) 09:02:24|「日本書紀と瀝青」|

続・アスファルトもシート防水も塗膜防水も「防水の歴史は4千年」

日本の場合

防水の歴史は、世界では4000年だが、日本に目を向けると、最古の文献として残っているのは西暦668年の以下の記録。

「日本書紀」《天智天皇七年(六六八)七月》◆高麗従越之路遣使進調。風浪高。故不得帰。以栗前王拝筑紫率。于時近江国講武。又多置牧而放馬。又越国献燃土与燃水。又於浜台之下諸魚覆水而至。又饗蝦夷。又命舍人等、為宴於所々。時人曰。天皇天命将及乎。

何と日本書紀だ。
毎年7月7日、天智天皇を祀る滋賀県大近江神宮で「燃水祭」が行われる。防水の歴史を語る時、必ず引き合いに出される「天智天皇に燃える土と燃える水を献上した」という故事に則り行われる祭典である。燃える土とは天然アスファルト。燃える水とは石油である。

「燃土燃水献上図」

「燃土燃水献上図」小堀靹音(ともと)画(シンクルトン石油記念館開館にあたって限定制作された色紙)

RNBL「日本書紀とアスファルト(瀝青)」参照
http://roof-net.jp/index.php?%E3%80%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80%E3%81%A8%E7%80%9D%E9%9D%92%E3%80%8D

黒川・燃水祭

「燃水祭」とはいえ、行列の順序は、日本書紀の記載通り、「燃土=瀝青」が「燃水=原油」より、先ですね。

昨年も「燃水祭」は盛大に執り行われ、石油業界から多くの人たちが参列、新潟県黒川村から運んだ燃える水を奉献し、日本書紀の該当部分を奉唱した。石油業界にとって天智天皇は「石油の祖神」であり、「燃水祭」は業界人として「石油の祖神」に感謝の祈りを捧げ、業界の繁栄を祈願する重要な行事となっている。そして、ルーフネット編集長は「今年は防水業界にもご案内を差し上げましょうか」というお言葉を近江神宮からいただいている。

この時代、天然瀝青は接着材、防腐剤、防水材として使われていた。防水業界にとって(道路業界にとってもなのだが)天智天皇は「防水の祖神」であり、近江神宮で行われる「(燃土)燃水祭」は「防水の祖神」に感謝の祈りを捧げ、業界の繁栄を祈願する重要な行事となるべきものではないか。まして天智天皇は「雨漏り」を心配してくれる歌を読み、その歌「あきの田の かりほの庵(いほ)の苫(とま)をあらみ わがころも手は 露にぬれつつ」は 百人一首の1番歌となり、その縁で、近江神宮はかるた大会の会場となり、「かるたの聖地」と言われる。

この極めて魅力的な事実を、あなたがもし優秀な営業マンならどのように活用しますか?

2011/01/05(水) 11:44:24|ARCHIVES|

「燃える土」がアスファルトであることを明示してくれた本

長 誠次 著「本邦油田興亡史」

本邦油田興亡史

日本の石油史を考察する上で最も重要な文献は、大正3年日本石油が東京移転に際して、また東京大正博覧会にあたって刊行した「日本石油史」だろう。さらに大正6年には「縮刷版日本石油史」が創立30周年を記念して発行された。

長 誠次さんはその「日本石油史」編纂の最中、日本石油に入社した。勤務17年にして昭和4年退社、諸般の事業を経験した後、昭和28年月刊誌「石油文化」を創刊した。日本石油は昭和33年、創立70周年記念事業として、すでに評判の高かった、大正3年刊の「日本石油史」の改定増補版ともいうべき、新訂「日本石油史」の発行を計画し、その編集・校正の全てを長氏に委ねた。長さんは3年間取材と執筆に没頭したそうだ。

そして完成後(石油文化社 2代目社長・奥田秀雄氏によれば)、「長誠次は取材の折々に収集し、見聞した資料に基づき<古き良き時代の石油の山>に限りない哀惜の想いを秘めつつ執筆を継続し、月刊石油文化誌上に昭和33年4月号から昭和35年5月号まで26回に渡って連載した」。それを纏めて「石油文化」創刊15周年記念として刊行したものが「本邦石油興亡史」である。

本邦油田興亡史 中

その長さんの溢れる想いの滴りの中で見つけた、われわれのキーワードを紹介します。
第1章「草生水(くそうづ)献上考」より

献上の動機
献上者はだれか
献上地はどこか
燃土燃水とは何か

この部分のみ引用する。

燃水が石油であることはまず疑問の余地がないとして、燃土が何であるかにつぃては諸説おこなわれ、断定はできない。これらをまとめると次のとおりとなる。

石炭類説(①石炭説 ②泥炭説 ③草炭説 )
石油類説 ⑤アスファルト説 ⑥油土(液体の石油が浸潤した土壌)説
―――略―――
燃土は燃水とともに祥瑞として献上された、という立場から見れば、燃えないはずの土状のものが、なぜか良く燃えることを偶然発見し、驚いて管司に届けたというのが祥瑞としての献上であるから、その献上物は泥炭のような性質のものではなく、もっと燃焼度の高い、人工を加えす、自然のままでも、よく燃えるのでもなければならい。
したがって燃土は泥炭ではなく、アスファルトの類だと推定される。

※長氏は膨大な過去の文献調査と、取材を通してこの結論を導いている。(この項続く)

2011/03/22(火) 11:59:05|ARCHIVES|

日石社史にみる日本石油史

5冊の日石社史から読み取る「燃土燃水献上」

日石百年史

日本の石油産業を展望し、歴史を踏まえて将来を展望しようとする際、最も重要な文献は日本石油、現JX日鉱日石エネルギーの5冊の社史「日本石油史」だろう。まず大正3年の東京大正博覧会にあわせて発刊された初版「日本石油史(写真下左)」、3年後の大正6年に創立30周年に合わせて発刊された「縮刷版日本石油史(写真なし)」、太平洋戦争開戦前年昭和15年、ひっそりと作られた百ページの50年史(中上)。初版日本石油史の改訂増補版ともいうべき新版「日本石油史(中下)」は昭和33年創立70周年の記念事業の一つであった。
そして堂々の千ページ越え、それらの総括ともいうべき昭和63年発刊の「日本石油百年史(右)」。

これらを精査する事で、石油産業の一端を担うアスファルト工業とアスファルトの歴史を読みとることができる。ルーフネットのかんばんコーナー「日本書紀と防水」で70年史までは概要を紹介した。今回は100年史。

石油4冊

1050ページの百年史は、「人類の石油利用はアスファルトをプラスチックス(可塑性物質)として利用した原始社会にはじまる。旧約聖書にノアの方舟の製造方法と関連してアスファルトが登場する…」と始まる。

そして日本書紀、668年天智天皇の節で、「燃える土と燃える水献上」とつながり、他の5冊と同じく「燃える土は天然アスファルトの類であろう」としている。

また、当時アスファルトが日本でも旧約聖書に近い用途で用いられていたという考古学的知見が、紹介されている。

2011/04/01(金) 01:01:11|ARCHIVES|

オペレッタ(喜歌劇)「燃える水」

大正6年、日本書紀に記された「天智天皇への燃土燃水献上」をテーマーにしたオペレッタが初演された。

オペレッタ「燃える水」台本
大正6年、日石創立30周年祝典で上演されたオペレッタ「燃える水」の台本の表紙。

ローシー一座による喜歌劇「燃える水」大正6年5月5日 両国国技館にて

2011/04/02(土) 10:27:26|ARCHIVES|

防水・石油の創作オペレッタでデビューした田谷力三

日本書紀の「燃土燃水献上」を主題とする喜歌劇「燃える水」

オペレッタ「燃える水」台本
「喜歌劇 「燃える水」台本の表紙

日本石油が本社を東京に移転して3年後の大正6年、は創立30年に当たっていた。その年の決算は創業以来の好決算で、あったこともあり、盛大な記念式典が準備された。日石は100周年記念誌で、その様子を次の様に伝えている。

6年5月5日、両国国技館を借り切って大仕掛けな装飾を施し、午後2時から夜8時半に及ぶ式典が繰り広げられた。翌6日の「万朝報」が「東洋未曽有の大宴会」といい、「東京朝日新聞」に「斯かる多数の来賓を招き正式の宴会を開きたるは民間の催しとしては我国未曽有」と記された。式典の内容と来会者は次のとおり。

日本石油創立30周年記念式典出席者
日本石油創立30周年記念式典参加者(日本石油百年史より)

ここで注目すべきは、来賓の豪華な顔ぶれよりも余興の欄。歌喜劇「燃える水」とある。
やっと、ここでこの画(表紙)の意味が分かった。次に表紙の「作:江見水蔭」の文字を頼りに、はたして江見水蔭(えみ すいいん)の作品に「燃える水」なるオペレッタの台本があるのか、どんな内容だったのか、を調べなければならない。

しかしこの喜歌劇「燃える水」の手掛かりは、国会図書館でも、芸大図書館・上野音楽資料室でもまだつかめない。

田谷力三のデビュー作であることは(菊池清麿氏のブログ「日本オペラ史-浅草オペラ」で見つけることができる。

文献ではオペラの歴史に詳しい音楽評論家、増井敬二氏が、「日本オペラ史~1952」(2003年12月25日 水曜社刊)のP112で、田谷の談話としてこう紹介している。

田谷自身の談話によると、この4月(1917年)にテストを受けて入座したという。彼の声を聞いたローシーが「オー・ブラボー・ニッポン・イチバン・テノール・グッドボーイ」と叫び抱きかかえた話は有名だが、主役テノールの不在に苦しんでいたローシーの嬉しさは想像がつく。田谷の初舞台は、5月5日に国技館で行われた日本石油KK創立30周年式典の余興で、ローシー一座の音楽劇「燃える水」(竹内平吉作曲)だった。


竹内平吉 (たけうち-へいきち )
1887-1972明治-昭和時代の指揮者、作曲家。
明治20年9月6日静岡県生まれ。チェロをウェルクマイスターに、音楽理論をユンケルにまなぶ。東京音楽学校(現東京芸大)卒。明治44年帝劇歌劇部(洋楽部)開設と同時に専任指揮者に。その後、宝塚少女歌劇の指揮、指導にあたり、宝塚歌劇団の理事も務め、上演された歌劇等の作曲を多数担当した。昭和47年4月14日死去。84歳。

ここまで解った情報をまとめるとこうなる。

喜歌劇(オペレッタ)「燃える水」
原作:日本書紀
脚本:江見水蔭
作曲:竹内平吉
演出:G.V.ローシー
演奏:ローシー一座
出演:田谷力三ほか(田谷力三19歳のデビュー作)

田谷力三サイン

このサインは、元鹿島建設技術部長で現岩井建築事務所代表の岩井孝次さんが、鹿島時代に銀座のバンクという店で、田谷力三から手持ちの名刺の裏にしてもらったもの。

岩井さんによると、店は10年以上前に閉店しているが、かつて帝国ホテルに近い場所、高速道路下のコリドー街にあり、「田谷力三」の歌が聴ける日もあった。いわゆる歌声クラブで、ステージに向かって椅子が3~40脚並んでいた。いつも女性歌手が数人歌っていた。一通り歌い終わると客席からのリクエストに応えてくれる。早い時間に店に入ると、女性歌手が指揮者にレッスンされていたような記憶がある…という。
森繁久弥さんも来ていた時期もあり、ここからプロの歌手として巣立った人もいたそうだ。

2011/09/25(日) 08:01:26|「日本書紀と瀝青」|

桜爆弾破裂寸前の近江神宮に行ってきました

防水の祖神を祀る春の近江神宮

近江神宮少し桜

毎年正月NHKが長時間放映する「かるた大会」、そして人気かるた漫画「ちはやふる」で「かるたの聖地」として崇められる近江神宮に行ってきました。

近江神宮本殿より

もちろん、本殿から見下ろす素晴らしい景色を堪能するためでもなく

近江神宮しだれ桜

巨大なしだれ桜を愛でながら、百人一首の石碑群のまえを通り、絶品蕎麦屋でくつろぐのを目的とした訳ではありません。

日本書紀に書かれた、「燃える土(アスファルト)と燃える水(石油)を天智天皇に献上した」献上の儀を画いた、前田青邨画伯の「燃える水献上図」を見せていただくこと。そしてもう一つ重要なミッションがありました。

2011/04/08(金) 12:52:29|ニュース|

青邨の「燃水図」は大協石油の30周年記念である証拠

前田青邨が画いた「燃ゆる水献上図」

近江 前田青邨

昭和51年3月21日大協石油株式会社取締役会長・密田博孝氏から「燃ゆる水献上の図」の複製画が奉納された、との記録が残っている。
権宮司 大木伸二さん(右)と、禰宜 岩崎謙治さん(左)。原寸大の複製画は100号。この絵も、燃水祭の会場に掲げられる。

前田青邨「燃ゆる水献上図」一部
54センチ×79センチの一部 紙本淡彩

青邨奉納

額の裏には、作品の経緯として、こう記されている。

この作品は大協石油株式会社創立30周年(昭和44年9月)を記念し、前田青邨画伯に依頼して、日本書紀に基き、越の国より燃える水(天智天皇の時代)の図として描かれたものである。
但し装束は当時の時代考証より一時代前のものとして描かれた。
また、これは大日本印刷株式会社の複写技術によって原寸大に複写したものである。

2011/04/10(日) 08:54:39|ARCHIVES|

「燃土燃水献上図(小堀鞆音画)」とは

「天智天皇にアスファルトと石油を献上した」と「日本書紀」に記された事の意味

小堀鞆音
燃土燃水献上図 小堀鞆音(ともと)文久4(1864)年2月19日~昭和6(1931)年10月1日

防水の歴史は、世界では4000年だが、日本に目を向けると、最古の文献として残っているのは西暦668年の以下の記録。

「日本書紀」《天智天皇七年(六六八)七月》◆高麗従越之路遣使進調。風浪高。故不得帰。以栗前王拝筑紫率。于時近江国講武。又多置牧而放馬。又越国献燃土与燃水。又於浜台之下諸魚覆水而至。又饗蝦夷。又命舍人等、為宴於所々。時人曰。天皇天命将及乎。

日本書紀である。

毎年7月7日、天智天皇を祀る滋賀県近江神宮で「燃水祭」が行われる。防水の歴史を語る時、必ず引き合いに出される「天智天皇に燃える土と燃える水を献上した」という故事に則り行われる祭典である。燃える土とは天然アスファルト。燃える水とは石油である。

日本書紀の天智7年(668年)に、越の国(今の新潟県)から燃える土(瀝青)と燃える水(原油)が献上された、と記載されている。

明治歴史画家小堀鞆音(ともと)は、日本石油から同社創立30周年事業の一環として依頼され、これをモチーフとした画を残している。ただし実際は、その3年前、大正3年東京大正博覧会に間に合うよう完成させたようだ。

石油業界は日本書紀の記述を自らの業界の起源とし、日本石油は創立30周年記念にこの画を小堀鞆音画伯に依頼し、大協石油(現コスモ石油)はやはり創立30周年記念として前田青邨に同じテーマの画を依頼した(紹介すみ)。

「燃土燃水献上図」は古代から接着、防水などに使用されていた燃土=瀝青=天然アスファルトを出発点とする日本の防水業界にとっても、業界の起源と考えられる。しかし燃水=石油は、塗膜・シート防水材の原材料であることから、むしろ「燃える水」を防水の起源として良いのでは…と考える防水関係者もいる。

いずれにしても「燃える土・燃える水献上」と言う日本書紀の記載が、防水業界にとって、貴重な初見であることに間違いない。

そしてそれを描いた画家が、有職故実に基づく正確な歴史考証による歴史画を得意とした帝室技芸員にして日本の歴史画の父・小堀鞆音であったことは極めて幸運であったと言える。

小堀鞆音(こぼりともと)については、後日紹介。

2011/05/10(火) 00:13:04|ARCHIVES|

歴史画家・小堀鞆音(こぼりともと)について

小堀 鞆音(こぼり ともと)
文久4年2月19日(1864年3月26日) - 昭和6年(1931年)10月1日)

小堀鞆音
大正3年に歴史画「燃土燃水献上図]を画いた。「燃土」とは天然アスファルト、「燃水」とは原油。

岡倉天心等と活躍した明治の歴史画家。帝室技芸員。有職故実に基づいた正確な歴史考証による歴史画を得意とした。

明治25年、岡倉天心や橋本雅邦らを中心に日本青年絵画協会の設立に参加。明治41年東京美術学校同校教授、文展審査員に。大正6年、帝室技芸員に。大正8年に帝国美術院が創立されると森鴎外が院長に、小堀鞆音、川合玉堂、富岡鉄斎らが会員となった。

大和絵風の新しい歴史画分野を開拓、東京美術学校教授、宮内庁帝室技芸員などを歴任。

画号の「鞆音」は有職故実(ゆうそくこじつ)を学んだ、師の川崎千虎の本名「鞆太郎」の一字を貰った。「鞆」は弓を射る時の皮製の武具で、弦があたるとそれが音を発するという意味。博物館、商務省特許局等で装飾下図の製作に従事する一方で古画の模写に携わり、研鑚を積む。

有職故実に基づいた正確な歴史考証による歴史画を得意とした。特に有名な武士を画材とする上で不可欠の甲冑の研究にも没頭した。甲冑を模作し、着用した写真が残っている。

小堀下絵
東京芸大が所蔵する下絵(大正3年東京大正博覧会出品画という裏書きがある)71.2×99.3 

2011/05/11(水) 00:29:10|ARCHIVES|

「燃土燃水献上」関連図その③

連作版画「燃える水物語」

連作版画


燃える水物語表紙

「燃える水物語」という連作版画が本になっている。勿論あの、日本書紀に書かれた「天智天皇への燃える土と燃える水を献上した」がテーマだ。郷土史を研究する先生の台本をもとに、新潟県の小学校の先生の指導で子どもたちが版画を彫った。

内郷小学校/ 版画、高橋晃/原作、 角田光男/文、 西村書店、1985年11月発行。 価格:1,575円。 残念ながら絶版で重版の見込みは極めて少ない。

2011/08/31(水) 06:40:14|「日本書紀と瀝青」|

歴史画の父・小堀鞆音の初公開作品「燃土燃水献上図」

佐野市立吉澤記念美術館 小堀鞆音展で記者会見

アスファルトの歴史語る幻の作品

佐野美術館プレスリリース
8月31日の記者会見で配布された資料より

※ ※ ※

防水の歴史は、世界では4000年だが、日本に目を向けると、最古の文献として残っているのは西暦668年の以下の記録。

日本書紀」《天智天皇七年(六六八)七月》◆高麗従越之路遣使進調。風浪高。故不得帰。以栗前王拝筑紫率。于時近江国講武。又多置牧而放馬。又越国献燃土与燃水。又於浜台之下諸魚覆水而至。又饗蝦夷。又命舍人等、為宴於所々。時人曰。天皇天命将及乎。

毎年7月7日、天智天皇を祀る滋賀県大近江神宮で「燃水祭」が行われる。防水の歴史を語る時、必ず引き合いに出される「天智天皇に燃える土と燃える水を献上した」という故事に則り行われる祭典である。燃える土とは天然アスファルト。燃える水とは石油である。

今年も「燃水祭」は盛大に執り行われ、石油業界から多くの人たちが参列した。新潟県黒川村から運んだ燃える水を奉献し、日本書紀の該当部分を奉唱した。石油業界にとって天智天皇は「石油の祖神」であり、「燃水祭」は業界人として「石油の祖神」に感謝の祈りを捧げ、業界の繁栄を祈願する重要な行事となっている。
そして、今年は防水業界からの初めての参列もあった。

この時代、天然瀝青は接着材、防腐剤、防水材として使われていた。防水業界にとって天智天皇は「防水の祖神」であり、近江神宮で行われる「(燃土)燃水祭」は「防水の祖神」に感謝の祈りを捧げ、業界の繁栄を祈願する重要な行事となるべきものではないか。まして天智天皇は「雨漏り」を心配してくれる歌を読み、その歌「あきの田の かりほの庵(いほ)の苫(とま)をあらみ わがころも手は 露にぬれつつ」は 百人一首の1番歌となり、その縁で、近江神宮はかるた大会の会場となり、「かるたの聖地」と言われる。

この極めて魅力的な事実の要になっているのが、今回展示される小堀鞆音の「燃土燃水献上図」である。これは防水関係者として何としてでも見に行かねばなるまい。

2011/09/01(木) 00:00:25|「日本書紀と瀝青」|

9月8日 毎日新聞 が掲載

毎日新聞 2011年9月8日朝刊に掲載
防水の起源を描いた 燃土燃水献上図 が初公開

毎日新聞

新聞が報じた、祭がこれ ↓↓

黒川村燃水祭。献上行列

黒川燃水祭献上行列
黒川燃水祭 献上行列 (撮影:森田喜晴)

近江神宮燃水祭・日本書紀奉唱
近江神宮燃水祭・日本書紀奉唱(撮影:森田喜晴)

2011/09/12(月) 00:00:05|「日本書紀と瀝青」|

若沖(じゃくちゅう)の美術館で、防水の起源に関わる画を見る

久しぶりにTVを見ました。BS3「美の饗宴」特集は伊藤若沖(じゃくちゅう)。

NHK-BS

モノトーンの天才絵師。解説者は「若冲の抽象は、不要なものを削るのではなく、濃縮作業である」と言っていました。

小堀鞆音の粘土燃水献上図を初展示する佐野市立吉澤美術館の自慢のコレクションは、実は若冲の菜虫譜(重要文化財)。ただし、修復作業に入ってしまったので今は、精密デジタル複写しか見ることができません。
とは言っても逆に、だからこそ普段では見ることのできない、ウルトラ拡大図を通して、繊細なタッチの秘密を発見できるというメリットもあり。これはこれで悪くない。

菜虫譜

以下、佐野市立吉澤美術館の解説です。

江戸時代中期の京都の青物問屋に生まれ育ち、近年ますます多くの人を惹きつけている画家・伊藤若冲の晩年期の作品です。11メートルにおよぶ巻物をひもといてゆくと、前半には四季の野菜や果物が、後半からは昆虫や爬虫類などの小さないきものたちが次々と現れます(野菜・果物等約100種、昆虫等約60種)。かれらのどこかユーモラスな姿からは、若冲の慈しむようなまなざしが感じられます。

現在は作品の一部の拡大写真の掲示を館内で行っております。
独立行政法人国立文化財機構東京文化財研究所との共同調査により、《菜蟲譜》の高精細デジタル撮影や蛍光Ⅹ線分析などの科学調査を実施中です。この調査の成果の一部である、高精細画像(作品の一部を拡大した写真)の掲示を行っています。若冲の、細部まで愛情を注いだ描写の魅力をご覧ください。

若忠手ぬぐい

菜虫譜に描かれた蛙は佐野美のトレードマークにもなっている。また、手ぬぐいマニアにはうれしいお土産も盛りだくさんだ。

小堀鞆音展の記者会見で、初展示となるアスファルトの起源を示す画は、報道関係者の興味を引いた様です。
この画にもとづいたお祭りが、今でも新潟県黒川村と、滋賀県近江神宮で毎年行われているのですからね。
すでに紹介した毎日新聞のほかに産経新聞でも、詳細に報道されていました。

 これです ↓

産経新聞

見にくいので、記者会見で配られた資料を再掲載します。

佐野美術館プレスリリース

地元関係者のお薦めお食事処は次回紹介します。

2011/08/25(日) 00:50:28|「日本書紀と瀝青」|

本日10月1日初公開 防水の起源に関わる画

毎日、産経に続き東京新聞でも大きく取り上げられました

東京新聞

佐野市立吉澤記念美術館より先週「東京新聞にも出たようです」と連絡をいただきました。WEBの記事を見て注文した掲載本紙が届きました。丁寧に取材していますね。写真も2枚使われています。

7月1に行われた黒川村での行列写真は、日本防水の歴史研究会森田喜晴事務局長が撮影し、8月31日に佐野市市庁舎で行われた記者会見のために提供したものです。

黒川燃水祭献上行列明
今年の献上行列の様子。服装や荷物の持ち方など小堀の作品を参考にしている=7月1日、新潟県胎内市で。

佐野出身 日本画家・小堀鞆音 没後80年業績振り返る

2011年9月19日東京新聞

佐野市出身の日本画家小堀鞆音(ともと)(1864~1931年)の没後80年展が10月1日~11月13日、市立吉澤記念美術館(同市葛生東)と市郷土博物館(同市大橋町)の2会場で開かれる。新潟県で実際に行われている献上行列のモデルとなったものの、研究者に存在が知られていなかった「燃土燃水(ねんどねんすい)献上図」など、戦後初の公開作品を含む計50点を紹介する。 (清水祐樹)

小堀は農業の傍ら絵筆を執り、二十一歳で上京。時代考証に優れた画家川崎千虎の下で歴史画家としての修業を積んだ。内国勧業博覧会や日本美術協会で評価を高め、東京美術学校の教授を務めるなど、後進の育成にも尽力した。歴史画の第一人者と呼ばれるまでになり、一九一七年には当時の画家の最大の名誉とされる「帝室技芸員」に任命された。

展覧会は、美術館で「武」と「文」をテーマに代表作や戦後初の公開作品を、博物館では佐野市ゆかりの作品を中心に展示する。

美術館で展示される「燃土燃水献上図」は、飛鳥時代に越国(今の新潟県など)で産出したアスファルト(燃土)と石油(燃水)を天智天皇に献上したという「日本書紀」の記述を基に描いた作品。一四年に当時の日本石油(現・JX日鉱日石エネルギー)の依頼で制作された。

石油業界の歴史を物語る絵として親しまれ、八三年には、この絵を参考に新潟県の旧黒川村(今の胎内市)から産出したアスファルトと石油を、天智天皇を祭る近江神宮(大津市)へ奉納する献上行列が始まった。美術展への出展がなく、従来の小堀研究の中では抜け落ちていた作品だった。

期間中は両館で記念講演会なども開かれる。問い合わせは吉澤記念美術館=電0283(86)2008=へ。

2011/10/01(土) 00:56:58|「日本書紀と瀝青」|

防水用ル-フィングと佐野市立吉澤記念美術館

防水の起源に関わる画の展示。
10月8日は特別講演 佐野と防水との縁

小堀鞆音「燃土燃水献上図」
初めて一般公開される 小堀鞆音「燃土燃水献上図」

画像の説明

初めて一般公開されるこの画をもとに、今でも新潟県黒川村(現在胎内市)や滋賀県近江神宮で、毎年お祭が行われている、ということがマスコミに注目され、記者会見の後、毎日新聞、産経新聞、東京新聞が大きく取り上げました。それを見た、大手の老舗総合防水メーカー日新工業常務の相臺 志浩(そうだいゆきひろ)さんからこんな連絡をいただきました。

※ ※ ※

相臺常務

今回防水業界にとって重要な絵画である「燃土燃水献上図(小堀鞆音画)」が初めて展示されるのが、佐野市立吉澤記念美術館と知って驚きました。吉澤記念美術館は、佐野市の企業である吉澤石灰工業の3代吉澤兵左氏が寄付した美術館なのですが、この吉澤石灰工業は、ルーフィングの充填剤の原料メーカーなのです。当社は大変長い間お付き合いをしています。偶然にも郷土博物館ではなく、防水業界に大変ゆかりのある企業が寄付をした吉澤記念美術館で展示されるというのは、何か因縁めいたことを感じました。

※ ※ ※

現在の佐野市は、旧佐野市、旧田沼町、旧葛生町の1市2町が、平成17年2月28日の合併によって形成された。

佐野市立吉澤記念美術館のある旧葛生町の歩み (佐野市のHPより)

旧葛生町は東西6.1㎞、南北22.7㎞と南北に長く、91.66平方キロメートルの面積を有しています。当町を含む付近一体は古くから足尾山地と呼ばれ、氷室山(1,154m)に代表される山々から東方向および南方向に次第に低く山稜が連なり、氷室山に端を発する秋山川が町を縦貫しています。

この地域は、もともと純朴な農山村として上流階級の衣類の原料となった良質の麻を栽培する土地であったといわれ、また西方から奥州に通じる街道の日光・宇都宮に至る間道の宿があったともいわれ江戸時代に旅人によりもたらされた石灰焼立の技術習得によって、「鉱都」としての石灰産業の歴史が始まりました。ここで生産された石灰は、のちに御用灰として上納され、また、庶民には土蔵の建造や肥料灰として利用されました。明治維新後、鉱山が民間へ払い下げとなり、大正時代にドロマイトの大鉱床が発見されると近代的機械の導入も促進され、以後セメント・砕石・ドロマイトの生産も進み、「鉱都葛生」としての基礎が固まりました。

豊かな自然に恵まれた、石灰・砕石産業を基幹産業とする旧葛生町の姿は現在でも変わることなく続いていますが、時代の流れとともにまちづくりの視点は「生産」から「生活」へとその重心が変化してきています。そこで、「語り合えるまち、大好きだといえるまちを創造すること」をまちづくりの基本理念として位置付け、新たなまちづくりを展開してきました。

石灰プラント1

葛生地区発展の基である「石灰岩」などの地層は、古生代ペルム紀(2億数千万年前)の熱帯の海でサンゴなどが、光をいっぱいに浴びミネラル分や炭酸ガスを素に、石灰質の骨格をつくりその遺骸が海底に堆積して石灰岩になりました。年月を経て、その石灰岩が太平洋底の動きによって西に移動し、葛生の山々をつくりあげました。石灰岩は雨水等の浸食を受け、そこに洞窟ができました。
かつて(約50万~5万年前)、その周辺で棲息していた脊椎動物等の骨や角が、洞窟などから化石として発掘され、その地層は「葛生層」と命名され学会でも有名です。そんな古代の様子を想像させる化石が、葛生地区には数多く産出しています。

石灰プラント2

美術館向かいの葛生化石館葛生層の化石は、ほぼ完全な形で発掘された「ニッポンサイ」の復元骨格や、故鹿間時夫博士の収集した26種類の脊椎動物化石などが、葛生文化センター内の化石館に展示されています。これらの資料は、足尾山地の形成や、新生代第4紀の脊椎動物の発展をたどる上できわめて貴重なものです。

2011/10/07(金) 00:13:37|「日本書紀と瀝青」|

時代の精神を描いた小堀鞆音

小堀桂一郎氏(小堀鞆音嫡孫)の講演会(速報)
「日本の防水」歴史研究会とのQ&A

講演会看板

画像の説明
展示の大看板のど真ん中に、「燃土燃水献上図」

小堀桂一郎講演
小堀桂一郎氏(東京大学名誉教授・小堀鞆音嫡孫)による特別講演会

「小堀鞆音と歴史畫の問題」

  • 日程:10月8日(土)
  • 時間:午後2時~3時30分
  • 講師:小堀桂一郎氏

講演後の質疑応答で、お聞きしました!

質問:ルーフネット森田
幾つかの新聞で、「初公開」として紹介されていた「燃土燃水献上図」についてお聞きします。この画は私の関係する業界の起源にかかわる画なものですから、非常に興味をもって拝見しました。

解説には、「日本書紀の中にある一節をテーマにしており、石油会社から依頼された画である」、となっていました。日本書紀に書かれているのは「越の国から、燃える水と燃える土が献上された」というほんの一節です。たったこれだけの情報から、どうして、ああいう全体の構図だとか人物表現が出てきたのか。有職故実に、とことんこだわった小堀鞆音の作品だけに、すごく興味があります。

それから、この画は日本石油から依頼されたわけですが、当時、歴史画と言うものは、依頼されて画いたものなのでしょうかそれとも、自発的に画いたものなのでしょうか。依頼される場合、テーマだけなのでしょうか、それとも具体的にイメージを、たとえば「こういう事をこんなふうに画いてくれ」と言われて、画かれたことが多かったのかどうか。
それから、初めての(展示となる)画ですから、この画から、どういうことが読み取れるのかなあと。「小堀鞆音が画いたのは時代の精神である」という、先生(小堀桂一郎氏)の今のお話を聞きまして、この画から何が読み取れるか、お尋ねしたいと思いました。

回答:小堀桂一郎氏
あの絵が成立しました、切っ掛けについては私も存知ません。つまり、全くの注文の絵であるのか、それとも、石油会社の方が、こういう題材の絵を探しているという事を聞きつけて、鞆音が「それなら、俺に描けるよ」と、言ったのかどうか、一切、判らない絵です。ただ、先ほども国学の学びのことについてお話しましたけれど、確かに鞆音は歴史書は、実によく揃えて持っています。古事記、日本書紀を始めとしてですね。これは、国学院大学で「小堀鞆音文庫」になっております。鞆音の資料集ですね、今、マイクロフィルムになっています。それを見ましても、本当に歴史をよく勉強した人だなという事がわかります。だから、先に注文があったかどうかは分かりませんけれども、もし、注文があったとしたら、「ああ、それならば、あの題材を使えば良いのだ」という事は、すぐ、ぴんときたのじゃないかと思います。

画像の説明

かつ、端的に面白い図柄でございますね。あの、アスファルトが発見され、燃える水という石油が発見されて、そして、それが献上になる。それを、村の爺さんと子供が見送っていると。いかにも、庶民レベルで、これは朝廷に献上する、珍しい「この国の物産」として庶民レベルで話題になったのだという事もそこに暗示している訳ですね。そういう意味で、私は、これも、やはり時代の精神、あるいは、産業精神と言っても良いかも知れませんけれど、そういう物の表現になっていると思います。残念ながら、そもそもの切っ掛けがどちらにあったのかは、私は存じません。

展示室入口
展示室入口に飾られた「燃土燃水献上図」

美術館正面

2011/10/14(金) 00:49:01|「日本書紀と瀝青」|

「燃土燃水献上図」人気!! 2回の学芸員のお話も満席

へえ~。日本書紀にアスファルトや石油の話が出てくるんですかあ!!

末武さんの解説

展示室入口に飾られた防水の起源に関わる小堀鞆音による「燃土燃水献上図」。学芸員(奥左)から説明をうける来館者

11月13日まで佐野市立吉澤記念美術館で展示

先着10人の方に招待券を差し上げます。本サイトの連絡用フォームに、送り先をご記入ください。週刊ウェブマガジン「ルーフネット」に対するご意見も一言お願いします!

申し込みはこちらから>>

2011/10/20(木) 12:18:33|「日本書紀と瀝青」|

日本石油史も展示されています..11月13日まで

小堀鞆音「燃土燃水献上図」は大正3年8月25日以前に完成していた

日本石油史展示明

佐野市立吉澤記念美術館。小堀鞆音「燃土燃水献上図」の前のケースに「日本石油史」が展示された。

PB062175.jpg

同書の目次後に見開きカラー図版があり、「天智天皇の御宇燃水燃土を越の国より献上の図」
同書凡例の末尾に「本書の装丁は小川千甕氏,燃ゆる水、燃ゆる土献上の図は小堀鞆音氏の筆に成りたるものなり」と記されている。

小堀鞆音燃土燃水献上図

画像の説明

この本を日石は3月の大正博覧会に合わせて発刊したかったはずだ。できなかった理由は前書きに書かれている。
本来大正元年までの分で記念誌は編集を終え、大正3年春に印刷に回ったのだが、業界の様子はその後激変、さらに5月にはかつてない大噴油があり、記事を追加せざるを得なくなったからであろう。

2011/11/07(月) 11:50:33|「日本書紀と瀝青」|

燃土燃水献上図刺繍作品は70周年記念のテーブルセンターだった

日本石油100年史編さん室長(当時)に会う

日石・生野さん、武田さん

「あれ(燃土燃水献上図刺繍作品)は、創立70周年記念として社員全員に配ったテーブルセンターでした。このほか、全員に配布したわけではないがこの絵(燃土燃水献上図)の金属板レリーフをあしらったタバコ入れも作られたはずです。」と生野さん(写真右。左はARK武田事務局長)

刺繍

生野さん、武田さん

11月14日桜木町の日石横浜ビルの倶楽部で。生野さんは現在80歳。100年史は3万部印刷された。責任者の生野さんには、皮装丁の特別バージョンが贈られたそうだ。

生野さん、武田さん

ルーフネットの記事を見ながら当時を思い出す

日本石油創立百周年記念誌が発行されたのは昭和63年3月。当時社史編纂室長を務めた、生野 寛さんに逢うことができた。生野さんは、社内報「こうもり」に長年随筆を投稿していたことから、滞っていた100年史編纂の責任者に抜擢された。

生野さんを紹介してくれたのは、昭和20年日石入社のARK武田事務局長。刺繍作品の謎は生野さんの言葉で解けましたが、それにしても当時の日石の社員はほぼ5000人。全員に配ったはず、とのことだから燃土燃水献上図」の刺繍は5千枚存在したわけだ。

2011/11/15(火) 19:52:36|「日本書紀と瀝青」|

油井神社の碑

油井神社碑はカグマの群落のそばに
毎年7月1日、「日本最古の油田・日本書紀のいう石油献上地」である新潟県胎内市のシンクルトン石油公園の中の原油湧出地で、黒川燃水祭が行われる。>>つづきを読む

参考資料 近江神宮「志賀」

>>近江神宮「志賀」のページはこちらから

「40年小史」にみる近江神宮燃水祭の起源

近江神宮40年小史
近江神宮が発行していた、月刊「志賀」の第148号(昭和55年11月1日発行)は、号外「御創建にいたる経過概要と「近江神宮四十年小史」として発刊された。>>つづきを読む

近江神宮燃水祭はいつ始まったか?

第1回「燃水祭」は 昭和48年8月15日斎行
左から近江神宮40年史(昭和55年11月発刊)、50年史(平成2年11月)、70年史。中下は創建50周年にあたって、新人物往来社から発行された「近江神宮-天智天皇と大津京-」。この編纂には近江神宮の神職3名(権禰宜、近江神宮機関誌「志賀」編集責任者、近江神宮責任役員)が当たっているため、信頼できる資料と判断した。>>つづきを読む

吉村昭「虹の翼」あるいは二宮忠八と防水の起源

飛行神社と二宮忠八資料館
京都・石清水八幡表参道一の鳥居そばに創建された飛行神社。航空殉職者や先覚者の御霊を祀り、零戦やF104のエンジンも展示されている。>>つづきを読む

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