「今の防水業界がこれでいいのか」「いい仕事をすること、社会的貢献をすることと、防水工事で利益をあげることは両立すべきだ」と考えるあなたに!

資料第弐号「日本アスファルト物語」

資料第弐号「日本アスファルト物語」

ピカソ美術館をつくった防水メーカー

「日本アスファルト物語」ものがたり序章

あるいは、瀝青事業で美術館をつくった池田英一
「日本アスファルト物語」の著者 池田英一は、アスファルトで財をなし、ピカソの美術館をつくった。

晩年の大作「近衛兵と鳩」
ピカソ晩年の大作「近衛兵と鳩」

防水書籍紹介、資料第弐号「日本アスファルト物語」開始にあたって、「日本の防水の歴史研究会」が、著者池田英一氏の防水とのかかわり、業界への貢献、なぜピカソなの?などの謎解きのため20世紀池田美術館を訪ねました。2010.9.28 08:00新宿発。

  • 同館のホームページによると、
    1975年5月伊豆の一碧湖けやき通りに、わが国初の20世紀美術館ができた。この美術館の土地、建物と約1300点の所蔵作品の大半は、現在のニチレキ(株)の創立者池田英一氏が寄付したもの。
  • 建物は、
    彫刻家井上武吉氏の設計で、展示館外壁は日本ではじめてのステンレススチール張り。入口から出口まで有機的に連なるユニークな空間造形となっている。
  • 所蔵作品は、
    20 世紀に制作された絵画・彫刻で《人間》をテーマとするものを中心に約1300点を収蔵。ルノワール、ボナール、ピカソ、マチス、レジェ、シャガール、ココシュカ、ミロ、ダリ、デ・クーニング等、外国巨匠の大作、秀作や、日本の異色作家の作品。常設展示は約100点、3ヶ月に1回特別企画展を行っている。
  • 予め連絡をすれば、館長又は館員の解説が聞けるとのこと。

「ヴィーナスと水兵」
ダリ:「ヴィーナスと水兵」
シュールリアリズム前の珍しい作品で、
海外美術館からの貸し出し要請が多い。


ミロ「女」
ミロ「女」

道路舗装材料メーカーであるニチレキは、昭和18年に日本瀝青化学工業所として池田英一氏が創業。かつては田島ルーフィング、日新工業など大手防水専業メーカーと、東京の防水工事受注を巡って激しく受注を競ったルーフィングメーカーでもあった。

現在のニチレキは、アスファルト乳剤、改質アスファルトをはじめとする各種舗装材料・工法の開発および販売・施工をおこなっている。ルーフィングなどの建築防水材料は製造していないが、橋梁用床版防水材を製造している。

「ボーナスもらうたびに1枚ずつ絵を買った」と池田英一さんが言っていた、と古い防水関係者は言うが、はたしてアスファルト乳剤はどのくらい儲かったのか。

2010/09/28(火) 08:00:00|ARCHIVES|

美術館の館長は、元、橋梁防水の専門家

アスファルトで儲けてピカソを集めた美術館

池田美術館

屋上防水からは撤退したが、ニチレキは今でも橋梁用の防水材を製造販売している。20世紀池田美術館館長の川添さんは5年前まで、ニチレキで橋梁防水の営業を担当し、シート防水の「ふくれ」をめぐって国土交通省と折衝していたという。橋梁の場合、床版コンクリート打設の後すぐに防水工事を行うが、その上の舗装工事まではかなり時間がかかる。防水施工後半年ということも珍しくないそうだ。防水層の下からはコンクリートの水分が上がり、上からは太陽熱で暖められる。それが半年も放置されれば膨れない方がおかしいと思うが、それが問題になる。

逸見さん

創設者池田英一さんを知る人にやっと会えた?

丸山さん

この受付の女性は、20年前から美術館に勤めている。池田さんが亡くなったのは1981年だから、直接には知らない。でも前任者から、池田さんは尊敬できるすばらしい方と聞いているという。こんなことがあったそうです。 ――― 35年前に館がオープンした当初、監視人がいない、柵のない美術館はまだ少なかった。「作品の前に柵がないと、いたずらされませんか?」という、来館者の心配に池田さんは「人の気持ちを信じましょ」と答えたそうだ。

2010/09/30(木) 09:04:01|ARCHIVES|

「土木遺産になった地下鉄銀座線」の防水工事

「日本アスファルト物語」が語る地下鉄防水の歴史

鉄鋼框
旧新橋駅の鉄鋼框(かまち)

登録

幻の新橋駅



浅草ー新橋区間は、国内で初めてH型鋼を大量に採用したトンネルや、末広町駅ー神田駅間の神田川の川底を通過するトンネルなど、貴重な土木構造物が多く存在することから、社団法人土木学会より推薦土木遺産として登録された。



日歴化学工業の創始者故池田英一氏は著書「日本アスファルト物語」(1981年発行日瀝化学工業㈱創立35周年記念出版)の中で、こう語っている。
 

地下鉄と駅高架ホームの防水に尽くした人

 昭和初期の大きなアスファルト工事に記録しておきたいものが二つある。一つは地下鉄の防水工事であり、一つは駅高架ホームの防水工事である。
 東京に地下鉄が初めて開通したのは昭和二年である。国鉄上野駅前から浅草雷門まで約五キロ、上野―稲荷町―田原町―浅草の四駅である。
 この地下鉄にアスファルトが大量に使用されて、その防水工事は、当時東京で最も大きな、また初めての地下に埋設されるアスファルト工事であった。
材料は、印度ジュートにアスファルトを加工したヘッシアンクロスを使い、ブローンアスファルトでクロス三層を張り付ける高級なアスファルト防水であった。浅野物産アスファルト部が一手に引受け、アスファルトをアメリカから輸入して施工を行った。
 この工事を施工したのは、当時浅野物産道路部のABC舗装工事を担当していた高野組の高野政造氏である。工事が大きかったので、市内に在住するアスファルト防水工は総出で参加したといわれている。
 高野氏は早くからアスファルト工事に携わり、防水、舗装に活躍した人であり、戦後はアスファルト舗装に大きな貢献した高野建設株式会社の創始者で、今の前田道路株式会社に継承されている。
 地下鉄防水と並んで、駅高架ホームで当時最も大きな工事は、国鉄名古屋駅の工事であった。駅改築のトップを切って、大理石貼りの円柱の高架に改良された現在の駅舎、東海道線、中央線、参宮線の各ホームの工事で、稲沢駅まで続く大工事であった。
 この防水工事は、地下鉄とは反対に全部国産品が採用されて、日本石油のブローンアスファルト、日本麻をかや地のように織った麻糸アスファルトシーチングが使われた。
 工事は大倉、銭高組など五社が請負い、防水工事は田島応用化工、岡田建材が引受け、現場監督は保園源三氏が担当して昭和八年に二年がかりで完成した。当時保園氏は、印度ジュートをアスファルトに浸漬して被覆してしまうと、タンニンが糖分化して繊維が破壊されると主張して、日本麻を使うように勧めていたが、その通りであって、今では印度ジュートは殆ど使われていない。
 当時は、アスファルトの研究が熱心に行われ、官庁におられた西川栄三氏、日本石油の村山健司氏、その他大勢の人々が先輩の後を受けて、アスファルトとアスファルトを応用した製品を改良開発していた時代である。

「日本アスファルト物語 p.209-p211」(池田英一氏著 1981年発行日瀝化学工業㈱創立35周年記念出版)

2010/10/25(月) 09:16:13|ARCHIVES|

ブローンアスファルトを改良してルーフィング防水事業を育てた 市川良正氏

市川良正先生(「アスファルト及びその応用」の著者)のこと
池田英一著「日本アスファルト物語」より

市川良正先生(「アスファルト及びその応用」の著者)のこと

アスファルト物語

 我が国の石油アスファルトは、大正の初めに高桑氏が苦心の末、秋田県豊川油田の原油を使用して造りあげ、日本石油株式会社に引き継がれて製造されていた。
 当時輸入されていたアスファルトは、アメリカで発明された高軟化点のブローンアスファルトが殆どであって、建築の防水工事に使用され、国産品が一日も早く出ることが望まれていた。
 大正十二年に日本石油からブローンアスファルトが初めて発売された。長年研究された結果の製品であったが、アメリカ製品に比べると軟化点、感温比などが劣っていた。
 ちょうどその時期に、市川良正氏と名須川秀二氏が日本石油に招請されてアスファルトの研究に携わった。
 当時の石油アスファルトは、生産されても道路舗装の用途は少なく、主として民間のルーフィング、フエルト、アスファルトモルタル舗床などに使用されていたのである。
 昭和四年頃には、ブローンアスファルトも品質が改良されて外国品に劣らない製品になった。市川氏は、輸入されるアスファルトがブローンばかりであるのを知って、研究をブローンの改良に集中し、ついに良質の製品を完成したのである。
 これによって、国内のルーフィング類の製造は急速に発展して、外国製品を完全に駆逐し、また防水工事に使用されていたブローンアスファルトの輸入をもストップさせた。
 それまで高い輸入品を使わせられていた建築防水の工事業者も危険負担はなくなり、経営も安定した良い業種になり、業者も増加して、社団法人日本アスファルト同業会を創り市川氏を会長に推載している。
 その後、日本のブローンアスファルトは各石油会社で製造され、年間三〇万トンから四〇万トンが平均して供給されている。

池田英一 ブロンズ像

 筆者は、昭和三十三年夏、市川氏に同行して国内におけるアスファルト製造の現状を調査するため各石油工場をつぶさに視察した。その結果、ストレートアスファルトは加熱時間を短縮して良質の製品を取り出すこと、即ち、蒸気精製は既に過去のものとなって減圧蒸留による製品に代って行くであろうこと、またブローンアスファルトは逆に加熱温度をなるべく低くして長時間をかけ、とくに触媒を使用し、連続式の装置に代って行く傾向にあること、更に製造装置の変化に応じ製品の性質もまた変ってくるであろうから、その使い方についても深く研究する必要があるであろうことなどを確認された。
 その後の市川氏は高桑氏と同様に教育に専念され、日本大学理工学部名誉教授として後輩の指導に専念されている。

(1981年発行 日瀝化学工業㈱創立35周年記念出版 著者 池田英一)

2010/10/27(水) 09:45:37|ARCHIVES|

防水メーカーが作った美術館。  ~なぜ作ったの?~

アスファルト乳剤が創った美術館

池田夫妻

池田英一が「日本アスファルト物語」を書く気持ちになったのは「妻チヨコの突然の死である」と同書のあとがきで述べている。池田20世紀美術館の入り口には池田夫妻のブロンズ像が並んでいる。

著者は「日本アスファルト物語」の最終章で、美術館開設の経緯を語っている。その中で当時のアスファルト業界の様子を簡潔にまとめているので、その部分を紹介する。

池田二十世紀美術館が伊東市一碧湖畔に開館したのは、昭和五十年五月一日である。
 高松宮様が妃殿下とお揃いでテープカットをして下さることとなり、当日、伊東までお出ましいただいた。いよいよ本館のテープをカットしていただく直前になって、宮様は突然私の家内に鋏を手渡されて、「貴女が陰の最大の功労者なんだから。それに、婦人が二人でテープカットすると、入場者が多いのです。妃殿下とお二人でカットしなさい」と仰有られたので、家内は図らずも妃殿下とご一緒にテープをカットする光栄に浴した。この宮様の暖かいご配慮によるハプニングは、家内にとっても私にとっても、生涯忘れ難い感激と名誉の思い出となった。
 さて、このようなことがあったためか、池田二十世紀美術館はお陰で毎年一万人くらいずつ入場者が増えて、今では日本の美術館でも何番目かにランクされるようになった。
 アスファルト物語のなかに美術館が登場するのはおかしいことであるが、関連があるので記載することとした。
美術館を創立するに当って特記したいことは
 一つは、美術館設立資金の出所である。この美術館建設と美術作品は総て池田個人の金で賄われ、他からの寄進は一切受けなかった。日瀝化学からも受けなかった。
 一つは、金の調達である。日瀝化学の株式上場の際、値付株として百万株を出して七億円を入手した。その後、無償増資割当を数回うけ、これを取引銀行に持株してもらい総額二〇億円になった。これをすべて美術品の購入と美術館の建設に当てた。従って、これは事業利益の金でなく、株式上場と増資株式譲渡による入金であった。
 一つは、美術館の名称である。池田二十世紀美術館と「池田」の名を付けたのは、サンケイ新聞の鹿内社長の勧めにより美術館にだけ池田の名前を残した。
 一つは、家内や子供の諒解をえて美術館を財団法人とし、これに美術品も建物も寄付し、かりに法人解散の時もすべての財産が国に帰属されるよう規定し、家族に後顧の心配をなくしたことである。
 一つは、アスファルト事業に五〇年携り、会社上場で得た社会評価の金で創ることが出来た美術館なので、アスファルトが創った美術館と思っていることである。




 以上は、美術館に関してよく人に質問されるので、はっきりさせるために書いたのである。美術館ができた成行きは次のような経過である。


 池田がアスファルトに関係したのは昭和四年であった。今年で五二年の歳月をアスファルト一途に世話になった。最初の一五年間は、建築関係のアスファルト、製品、防水工事に従事してアスファルトを知ったのである。
 昭和二十一年から現在までは、主として土木、道路に関連したアスファルト、製品、舗装に従事し、製品開発と会社経営に全力をあげ、創った会社は一五社であった。
 アスファルト製品の製造を始めたのは、昭和二十三年当時は道路工事に使われていた製品が粗雑な製品でありすぎたので、これを規格に合った製品にするため工場を造ったのが切っかけであった。
 
 代用アスファルトによる防水と舗装 最初は、秋田県土崎町に建てた代用アスファルトの工場であった。アスファルトが不足していたので、硫酸ピッチを活用して約三千トンの代用アスファルトを造り、防水、道路に使用した。二十五年に石油アスファルトの製造が再開されて出回り始めたので製造を停止した。

 昭和二十三年に浅草田中町の倉庫の敷地の一角でアスファルト乳剤と目地材の製造を始めた。その後、二十五年に東京尾久町にアスファルト製品工場を建設し、アスファルト乳剤の製造を本格的に開始した。この乳剤製造の切っかけは、市内の道路舗装に加熱用の燃料がなかったのでアスファルト乳剤を使用していた。乳剤はアスファルトが不足していたので、五五パーセント分のアスファルトを出して製造してもらっていた。ところが、試験をしてみると、アスファルト分が三八パーセント程度しかないことが度々であった。当時のアスファルト乳剤の規格は四八パーセントであった。アスファルトは結合材として大切な役目をするもので、これが出たら目ではよい道路舗装は出来ない。正確な規格をもった製品を造って使用してもらおうと製造を開始したのである。

 アスファルト目地材の開発 セメントコンクリート目地材の製造を始めたのは二十八年であった。市販されているアスファルト目地材は手流し作業で作られるため、中央部が収縮して二〇パーセントくらい薄くなる。これは高温で造るとき起る現象で、これを改良して日本で初めてのエキスパンタイト製造設備を考案し、低温で機械製造した。
 昭和三十二年、建設省道路関係技術者からコンクリート目地が膨張によってはみ出し、自動車の走行に大きなショックを与えて困るので、何とか改良できないかと相談された。早速研究を始めて多孔質の防腐性繊維板、セロタイトと防水密封剤としてゴム化アスファルト、セロシールを開発した。この製品の値段は在来品の二倍であったが、完全に近いほどに走行ショックをなくして好評を得、従来のアスファルト目地材に取って代った。

 アルミ箔ルーフィングの開発 アルミ箔ルーフィングの開発は、陸屋根のアスファルト防水層が老化現象を起すことが判明したためである。終戦後、焼失を免れた建物の防水修理工事において、防水層の上に厚く塗布したアスファルトに老化による収縮で大きな割目が発生していることが分った。
 これを防止するには、アルミ箔が効果的であることが研究の結果で分った。太陽光線がよく当たる面のアスファルトの老化は進むが、アルミ箔の下層までは老化は進行しないのである。下層用にアルミ箔を基材としたメタロイド、上層用に同じくスーパーアルソイドルーフィングを開発した。

 ドル箱 カチオン系アスファルト乳剤 カチオン系アスファルト乳剤の開発は昭和三十四年のことである。アスファルト乳剤の原料であるアスファルト基原油が輸入されないことになったのである。これは会社にとって大事件であった。乳剤は売上金額の六〇パーセントを占める製品である。中東原油から採ったパラフィン系アスファルトを何とか製品化しないと、会社を閉鎖するか、業務を縮小するしかなかった。幸いに一年余で研究を完成して、日本で初めてのカチオン系アスファルト乳剤を発明開発した。このアスファルト乳剤は売れに売れて、首題の池田二十世紀美術館を創る原動力になったのである。

 日瀝化学工業株式会社は、カチオン系アスファルト乳剤の発明開発と育成で八百万円の資本金が一三億二千万円余になり、工場数三六工場、土地は全国国道すじに一四万五千余坪、自己資金六〇億円余を持つ株式会社に成長し、東京証券取引所に上場する会社になった。
 池田英一個人も貯金通帳すらなかった身から、このカチオン系アスファルト乳剤のお陰で余生をのんびりと送れるようになり、苦労を共にした周囲の人々にも返礼が出来たと喜んでいる。

 以上のように、アスファルトに生き、アスファルトによって社会評価を得たのだから、何か社会にお返し出来る施設を残したいと考え美術館を創ったのである。 従って、私はこの池田二十世紀美術館を「アスファルト乳剤が創った美術館」と思っている。

2010/11/15(月) 09:35:00|ARCHIVES|

「日本アスファルト物語」の前書きと目次

二番手グループが見たアスファルト防水の全盛期
この本が書かれた理由

池田英一氏

池田英一(いけだえいいち)明治44年、埼玉県蕨市生まれ。昭和4年田島応用化工入社。昭和18年独立し、日本瀝青工業所設立。日瀝化学工業創立35周年記念出版として、1981年「日本アスファルト物語」を出版した。

はじめに2  はじめに1

「我が国のアスファルト関係の今日(昭和56年)の事業は、生産量、使用量ともにアメリカに次いで世界第2位である。」「日本国家の施政、施策の中でも、アスファルトに関連する社会諸施設は、予算投資の重要な位置を占めているのである。ただアスファルトという文字が表面に出ないので、関係者でも気がつかない。」(まえがきより)

目次1

目次2

目次3

目次4

防水の歴史を探る「ルーフネット」は日本の世界の防水に関する記録の初見を求めて日本書紀や聖書などを調べています。(日本防水の歴史研究会)

2011/02/14(月) 09:00:42|ARCHIVES|

「日本アスファルト物語」後書き、年表、奥付け

昭和4年からアスファルト事業を始めた池田さんが、
50年の流れをまとめた記念誌

アスファルト物語 

あとがき

「田島武長氏、中西嘉三郎氏、佐久間栄吉氏、青盛繁男氏、浜野留吉氏、高山武雄氏、奥山岩吉氏、久保幸一氏、北川定信氏などアスファルトに詳しい方々が、すでに幽明境を異にしていた。これは、アスファルトに関する流れを知っているだけでも書き記して、世の中に残しておきたい、という気持ちにかられたのである。」(あとがきより)

年表1
年表の始まりはもちろん668年。天智天皇7年だ。


奥付
奥付


年表最終ページ
年表の最終年は1980年。

防水歴史図書館資料第2号「日本アスファルト物語」はこれで一旦終了。関係者の同書に対する評価は順次まとめて追加してゆきます。
2011/02/16(水) 09:56:14|ARCHIVES|

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