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資料第参号「アスファルトルーフィングのルーツを探ねて」

資料第参号「アスファルトルーフィングのルーツを探ねて」

資料第参号「アスファルトルーフィングのルーツを探ねて」

「BOUSUIデジタルアーカイブ」防水歴史図書館 シリーズ 第3弾

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近代防水の歴史はほぼ100年。東工大名誉教授・小池迪夫先生の緻密な調査を経て、社団法人全国防水工業協会は100年記念式典を行った。ここで言う防水とは、芯材にアスファルトを含浸させたルーフィングを溶融アスファルトで貼り付け、それを何度か繰り返すビルトアップルーフィング=積層工法のことである。現在防水材として認知されている塩ビ・ゴムシート、ウレタン、アクリルなどの塗膜防水が市民権を得たのはせいぜい30年~40年前。ほんの10年前までは、アスファルト防水熱工法を指して言う「本防水」という言葉が生きていた。かつて本防水といわれたアスファルト防水熱工法が工法上の制約や職人不足の問題により、年々シート防水や塗膜防水にシェアを奪われ、今では、どう贔屓目に見てもアスファルト系、塗膜系、シート系の比率は各1/3。

しかし他の工法はそれぞれ、アスファルトに追いつけ追い越せ」と研鑽を積み実績を積み今日の地位を得るにいたったのである。

一方、アスファルト防水に関しては、新築超高層ビルのほぼ100%に採用されているという事実は、アスファルト防水に対するある種の評価を表している。 

さて、そのアスファルト防水。近代防水の歴史としては100年だが、ルーフネットで度々紹介しているように、「防水材としてのアスファルトの歴史」は紀元前3000年までさかのぼる。これは聖書の世界だけでなく、日本の縄文時代の土器の補修、籃胎(らんたい)への使用などが見られる。

日新工業が創立40周年事業として作成した「アスファルト防水のルーツを探ねて」は、「秋田地方で天然に湧き出した「土瀝青」と呼ばれた天然アスファルトの取材を中心に、幅広い資料から、日本におけるアスファルトルーフィングの歴史を探っている。

このシリーズでは、鶴田キュレーターとルーフネット編集長が、本書の歴史的価値と面白さを紹介してゆく。

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左は社団法人全国防水工事業協会の「日本の防水~防水工事100年のあゆみ」、右は「月刊 防水ジャーナル『防水100年記念~明治から平成へ』」特集。これらの中で小池先生が近代防水100年の論拠を示している。

奥付

  • 昭和59年日新工業(株)創立40周年記念しとして発刊された「アスファルト防水のルーツを探ねて」の奥付。

    (写真入る)

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口絵

  • 記念誌の口絵に使用された小堀鞆音(ともと)の燃土燃水献上図。防水の起源に関わる貴重な絵で、日本書紀の記述を絵画化したものである。この絵が2011年10月1日栃木県佐野市の佐野市立吉澤記念美術館で、初めて一般公開される。この経緯と、詳細はウェブマガジン「ルーフネット」に詳しい。

    (写真入る)

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発刊の挨拶

  • 発刊にあたって、土橋 隆社長(当時)の挨拶 。

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目次

  • 「アスファルト防水のルーツを探ねて」の目次。

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資料第参号「アスファルトルーフィングのルーツを探ねて」その2

年表・参考文献も重要

(写真入る)
約百年前、初めて近代的な防水が施工された大阪瓦斯本社

近代防水の歴史はほぼ100年。東京工業大学小池迪夫名誉教授の緻密な調査を経て、社団法人全国防水工事業協会は2005年(平成17年)に「防水100年」の記念式典を行った。ここでいう防水とは、芯材にアスファルトを含浸させたルーフィングを溶融アスファルトで貼り付け、それを何度か繰り返す近代防水としてのビルトアップルーフィング=積層工法のことである。現在防水材として評価されている塩ビ・ゴムシート、ウレタン・アクリルなどの塗膜防水材が市民権を得たのはせいぜい30年から40年前。ほんの10年前までは、アスファルト防水熱工法を指して言う「本防水」という言葉が生きていた。かつて本防水といわれたそのアスファルト防水熱工法が工法上の制約や職人不足の問題により、年々シート防水や塗膜防水にシェアを奪われ、昨今では、どう贔屓目に見てもアスファルト系、塗膜系、シート系の防水材の市場占有比率は1/3程度である。

しかし他の工法はそれぞれ、アスファルトに追いつけ追い越せと研究と苦い経験、実績を積み重ね今日の地位を得るにいたった。
また現在でも、アスファルト防水は新築超高層ビルのほぼ100%に採用されているという事実は、アスファルト防水に対するある種の評価を表している」。

さて、そのアスファルト、近代防水の歴史としては100年だが、週刊ウェブマガジン「ルーフネット」でいつも書いているように、防水材としてのアスファルトの歴史は紀元前3000年までさかのぼる。これは聖書の世界だけでなく、日本でも縄文時代の土器の補修、籃胎(らんたい)への使用などの例が見られる。
日新工業が創立40周年事業として作成した「アスファルトルーフィングのルーツを探ねて」は秋田地方で天然に湧き出していた土瀝青」と呼ばれた天然アスファルトの丁寧な取材を中心に、幅広い資料から、日本におけるルーフィングの歴史を探っている。
同書の本文に触れる前の参考資料紹介。今回は年表と参考文献の部分をお見せします。

年表  (画像をクリックすると拡大します。)

年表①  年表②

    年表③

参考文献一覧   (画像をクリックすると拡大します。)

参考文献①  参考文献②

参考文献③  参考文献④

あとがき   (画像をクリックすると拡大します。)

   あとがき

資料第参号「アスファルトルーフィングのルーツを探ねて」その3

防水工事の歴史を記した文献として、まず挙げねばならないのは「アスファルトルーフィングのルーツを探ねて」であろう、という点で、チーフキュレーターの鶴田裕さんと意見が一致しました。同書の価値を語れる方も少ないながら何人かはいらっしゃる。しかし、その筆頭はこの方だろう、という点でも意見一致し、小池迪夫東京工業大学名誉教授に、コメントをお願いしました。

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写真左。(2011.3.10.東京工業大学 田中享二 教授 最終講義後の謝恩会にて)

「もう私が出る幕じゃないよ」と固辞されましたが、ルーフネット編集長のしつこい粘りで、「ナビゲイター」として、こんな文章をいただきました。ルーフネット初の書き下ろしです。

日新工業株式会社編著40周年記念誌

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「アスファルトルーフィングのルーツを探ねて」(1984年9月刊)を探ねて

ナビゲイター 東京工業大学名誉教授 小池 迪夫

本書は、わが国における天然アスファルトの採掘・加工・応用からアスファルト防水工法成立に至る歴史物語である。

巻頭に、日本書紀巻27天智天皇(在位668~671)の部所載『越國献 燃土與 燃水』[越國(新潟)から燃土(土瀝青)と燃水(石油)を献(たてまつった)]という故事に基づいて、人足が2人一組でそれぞれ石油と土瀝青を担いで運搬し、馬に乗った武士が監督している小堀鞆音の絵画(大手石油会社が30周年記念として制作)が飾られている(残念ながら割愛)。

さて本書の概略をたどる。

土瀝青(地瀝青とも。天然アスファルト)の開発利用は江戸時代に遡り、炭素原料や道路用などとして商売があった。それが国家的産業化の端緒となったのは明治10年開催の第1回内国勧業博覧会であると位置付けられる。

東京から紙瓦、秋田から土瀝青、新潟から石油が出品され注目されたといわれている。同年アメリカで土瀝青による舗装工事を見聞した人がこれを試みるも、失火する等で失敗に終わった。しかし翌年には東京・神田の昌平橋の舗装施工に成功したという。

紙瓦とは和紙に土瀝青を浸透させたもので、アスファルトフェルトの先駆的製品であろうが詳細は明らかでない。輸入品が何時ごろ登場したかは判然としないが、或るアメリカのメーカーが代理店を変更した際、挨拶代わりの広告に明治22年に初めて輸出したが……云々と記されている。ある時機には輸入品は6種類ぐらいに増加したようだが、正確な輸入の状況は定かでない。このような世相を反映して国産品も数多く出現したのは当然であろう。

本書には土瀝青を産業に育てるために尽力した人々が紹介されているが、煩雑になるので割愛しよう。

土瀝青の登場で建築学会でもその紹介記事が機関誌“建築雑誌”(例えば1888.5、1897.10、講演内容1905.8)に掲載している。また科学工業全書(1896)にも石油の記事がある。

産業面では1908年(M41)に大手石油会社が秋田に遠征して石油の掘削を開始して以来、幾つかの石油会社が一斉に掘削に参加し、立ち上げた掘削櫓は717本に及んだという。後に急速に減少したが、石油開発以降徐々に土瀝青から石油アスファルトへ変更されていったことは容易に想像できる。

アスファルト防水で最も早期な例は、1908年8月(M38)竣工のガス会社事務所ビルの一部の張出しにアメリカから輸入された材料と工法で施工されたものであるが、それが一般化するには数年の年月を要した。明治・大正の転換期1945-46、M45-T2)に大阪で竣工した少数の小規模な建築の屋根に、アスファルト防水が施工された記録があるが材料が国産品か輸入品かは不明である。

明治時代の末期から、アスファルトルーフィングの製造盛んになり、第一次世界大戦中(1914-1918、T3-7)及びそれに続く好景気時には業界の競争は激化した。その景気に乗じてある会社が大資本を投じて、アメリカから最新鋭の製造器を輸入しアメリカ人技師を招聘して創業したが、その頃には不景気風が吹き始めていた、という悲劇もあったようだ。

1923年(T12)の関東大震災の復興には便利瓦と呼ばれていたアスファルトルーフィングが引く手あまたとなり、小規模のメーカーがそれぞれ小事故を経験しつつ需要に応えるべく頑張ったといわれている。

関東大震災の被害に直面して当局は学校建築の不燃化の重要性を認識し、1923年(T12)設計の小学校2校の設計書及仕様書に、輸入品によるアスファルト防水工法が指定された記録がある。1928年(S3)の設計書には、アスファルト及びアスファルトルーフィングは国産品2種を例示しそれと同等以上と指定したように、国産品の生産態勢が整備されつつあるように思える。その他幾つかの設計例もあるが、ここでは割愛しよう。

現国会議事堂(当時帝国議会議事堂)は、全て国産の建築材料を使用する方針の基に1920年(T9)起工し、1936年(S11)竣工した。その過程において、アスファルトルーフィング業界の一面を物語る経過があった。国会議事堂の防水工事は7回に分割されて施工されたが、1928年5月(S3)の第1回の工事では、プライマー、ウォータープルーフィングセメント、スタンダードファブリック(筆者注:網状ルーフィング)は、当時の国産品は品質が十分でなかったとして輸入品が指定された。しかし1929年9月(S4)からの第2回の工事からは総て国産品が指定された。

筆者の所感:

上記の経過は第1回の防水施工はアメリカ某社の仕様をそのまま採用したことを示すもので、国産メーカーは1年ちょっとの間に鋭意輸入品と同等の製品を製造した経緯が見て取れる。
なお、筆者が長年疑念に思っていたアスファルト防水層の構成で、網状ルーフィングが重用されてきた理由を理解することが出来た気がする。

むすび
以上、日新工業株式会社創立40周年記念誌の内容を非常に掻い摘んで紹介したが、失礼があってはならないと固有名詞を用いなかった。そのため分かり難い面があったことをお詫び申し上げます。

最後に、本書は学会誌、出版物、会社案内等を含めて、既往文献113編にわたり収集調査し、既に社長が故人となった会社案内では遺族に尋ねて調査して読み解き、217ページに及ぶ優れた編著に仕上げたもので、その努力に深甚なる敬意を表するものであります。

2011.10.21

資料第参号「アスファルトルーフィングのルーツを探ねて」その4

ため息の出るくらいの大労作ですね。鶴田 裕キュレーター

鶴田裕(つるた ゆたか)さんは 防水をライフワークとする元大成建設の防水・仕上げ材料研究室長。停年退職後、防水メーカーに6年間勤務したあと、NPO建築技術支援協会(略称PSATS・サーツ)で技術アドバイザーとして、防水担当。今春まで裁判所の調停員を務めた。NPO匠リニューアル技術支援協会理事。

約25年前、中小超大手にかかわらず、ゼネコンの最大の問題点は漏水・雨漏りだった。各ゼネコン研究所も防水を最重点課題として、対策に全力投球した。会社の枠を超えた防水研究者同士の繋がりは強く、設計者、メーカー、工事店を巻き込んで、防水材料・技術の発展に大きく貢献した。鶴田さんはそうした防水研究者の中心メンバーの一人だった。

鶴田さんは「『あと10年か20年早くこの本が出版されていたらなー』と、ため息が出るような大労作であった。その日横浜からの帰途の1時間余りの電車内で、むさぼるように目を通した。神代の時代から、近代までのアスファルト防水のことを、よくぞここまで探り出したものと感嘆した。ため息がでた」と言った。その一つが探していた「国会議事堂」や地下鉄の防水仕様だった。今回は鶴田キュレーター自身の評価をお聞きした。

EF58青大将鶴田

EF58:昭和31年11月19日。 東海道線の全面電化が完成し、今まで使用していた茶色の客車を塗り替え、あっと驚かせた特急「つばめ」と「はと」。この写真は1カ月後のつばめが根府川の鉄橋を渡る姿を撮影した。鶴田さん自慢の1枚。(顔写真に替えて)

「アスファルトルーフィングのルーツを探ねて」と私

鶴田 裕

昭和59年の秋のある日、勤務先の横浜・戸塚のゼネコンの技術研究所まで、大手アスファルト防水メーカー、日新工業の営業マンが、立派な箱に入った200頁あまりの「アスファルトルーフィングのルーツを探ねて」という本(以下この本という)を届けてくださった。我が国での天然アスファルトの発見と発掘に始まり、防水材料の国産化開発の経緯、更には大正~昭和初頭にかけての有名建築物の防水仕様など、「あー、あと10年か20年早くこの本が出版されていたらなー」と、個人的にはため息が出るような大労作であった。その日横浜からの帰途の1時間余りの電車内で、むさぼるように目を通した。神代の時代から、近代までのアスファルト防水のことを、よくぞここまで探り出したものと感嘆した。
私は昭和35年にゼネコンの技研に入社したが、合成樹脂系材料をテーマに卒論や修論をまとめたので、我国に根付き始めたゴム系の防水材料を担当することになり、皇居・新宮殿に使用する合成樹脂系シート防水の性能評価や、東京オリンピックを控えての諸建物のカーテンウォール用のシーリング材とその納め方など、当時芝にあったアメリカ文化センター所蔵の諸文献を頼りに、“自習”するのが精一杯であった。ひと段落した昭和40年代初めになって遡ってアスファルト防水を学ぶという、歴史に逆らうようなステップで古を知ることとなった。
今回、編集長の森田氏からこの本の感想というか、ちょっとおこがましい言い方になるかもしれないが、私なりの評価をして欲しいとの依頼を受けた。アスファルトを緒口としてこの分野で成果を上げてこられた東京工業大学名誉教授の小池先生のような、この道の王道を歩まれてこられた方にお願いすべきと伝え、確かに私は仲介役を果たし、ルーフネット70号に小池先生による、抄録と総括が纏められ、これで私の責任を果たせたと安心した。それも束の間、私にも纏めろとの要求が編集長から届いた。そこで、前述の「あー、もっと早く出ていたら良かったのになー」ということに結びつきそうな話題を引っ張り出してみることにした。

1 秋田の天然アスファルトを採掘した場所でのこと。
昭和40年代の終わり頃だったと思うが、社内報を見ていると当時の仙台支店の建築技術室員が、竣工したばかりの秋田県立体育館の屋根に使用したゴムシート防水から雨漏りした事例の調査報告文が載っていた。屋根に上ってみたらパラペットの立ち上がり部分の下から10~15cmのところに無数の孔ができている。付近には魚の小骨が散らばっていることから烏と思い、早朝というよりも夜中の時間帯に多数の烏が休んでいることを突き止め、赤外線フィルム用いて写真撮影し、証拠を掴んだという苦労話であった。ゴムシートを烏の嘴で傷めつけられることは、今でこそ広く知られていることだが、その時は初耳だったので早速支店に電話をすると、それが縁で私も現地調査をすることになった。その時に案内してくれた県の担当者から、「この辺りは大昔に天然アスファルトを採掘したところで、その後は荒れ地になっていた所」との説明を受けた。結局ゴムシートを残したまま補修用の防水層を施工することになり、ゴムアスファルトの砂付きルーフィングを用いて熱工法で直した。確かにこの本を見ると、秋田県内にはそこらじゅうに天然アスファルトの採掘地があったことを地図で示しており、ゴムシートも元を辿れば自然に産する石油から作られているものの、古の歴史ある地に新建材を持ち込んだことに対する、天然材料の逆襲だと思った。

2 国会議事堂の改修時のこと
昭和55年頃のことと記憶するが、当時国会議事堂の大改修が計画されており、技研に応援を求める可能性があるので、関連文献を探しておいてほしいとの情報が届いた。大成建設の創業80年史に帝國議会議事堂の新築工事を担当したとの記載があったので、その準備に取り掛かったが、予想に反してこれはという記録類は見当たらず、施工業者についても不詳とか直営というような記載しか見当たらなかった。気が付いた時には大手のKゼネコンが改修施工をしていた。
改めてこの本を見ると、大蔵省営繕管財局編の帝國議会議事堂建築報告書(昭和13年)よりと記された第1回~第7回に分けた4年余りに亘る防水工事の概要が記されていたことにもびっくりさせられた。これには後日談がある。平成14年12月に、テレビ朝日報道局社会部の外報部記者を務め、外国の戦争やゲリラの取材経験豊富な秋庭俊氏が執筆した「帝都東京・隠された地下網の秘密」(㈱洋泉社)が出版された。鉄道マニアと自認する私にとっては、単に地下鉄建設に関わる不思議な話を読もうと楽しみで手にしただけだったが、よくもここまで調べたなと思うくらい大正時代から最近に至るまでの地下の“あなぐら”のことを列挙している。国会議事堂近くの地下鉄にまつわることの一つに、国会議事堂の建設を挙げている。引用した4冊の書名を挙げ、設計者は4冊が別々の設計者(うち1冊は大蔵省臨時議員建築局)の名前を、また施工者は1冊は不詳、他の3冊は書いていないと記している。更に読み進むと数十頁ほど先に、大蔵省営繕部の重鎮・下元連氏の「国会議事堂建築の話」に施工を担当したのは大倉組、つまり大成建設だとしている。三宅坂や市ヶ谷の兵舎に始まり、「その前の日本土木という社名時代には、今でも神話のように語られているように設計、土木、施工の粋を集め、国会や省庁に変わってプランを立てーーーー」とあり、昭和32年には国会図書館、霞が関~国会議事堂前の地下鉄、更には憲政会館、衆参両院の議長公邸、首都高三宅坂インターチェンジ、赤坂の迎賓館はすべて大倉組、現在の大成建設と記され、秋庭氏の言う地下構造物の不思議な話に結びつけて書かれている。既述のように本書は平成14年の発行なので、私はすでに第3の人生を歩んでるとはいえ、大成建設が何となしに責められている感があり、すっきりしなかったように記憶している。これも、あー、もっと早く出ていれば文献探しが一歩進んだのかもしれない。 

3.営団地下鉄 田原町駅の防水
平成の一桁時代の年と思うが、かつての古巣の土木部門から連絡があり、地下鉄銀座線の田原町駅の地上へ出る連絡口の一部改築工事を行っているが、アスファルト防水層が出てきている。興味があるかとのことで、早速出向き地下の外防水層をサンプリングし、昭和60年に終了した建設省の耐久性総プロ法に準じた方法で試験を行った。この本に記載されている楡井喜重氏に、ばったり新幹線の車内でお目に掛かり、ゆっくりお話を伺ったことが有った。私にとって最後の対面の機会であったが、東京の防水工事屋さんの多くが戦災を受けたために資料を失っているが、大倉が施工した最初の地下鉄、浅草~上野間の防水仕様書を持っているよとのこと。その後青焼きのコピーを頂いた。お目に掛かった時の記録がないが、私が新大阪から西行きの新幹線に乗ったら登場して程ない2階建ての電車の隣の座席だったので、山陽新幹線開通後のことになるが、岡山までは昭和47年、博多までは昭和50年開業なので、まだこの本が出る以前ではないかと思っている。

頁を繰っていて、僭越ながら自分との関わりばかりを書いてしまった。この本が発行されて程なく、同業者から「どの頁の何々はおかしいとか、何が抜け落ちているとか」の揚げ足取りのような話が耳に入った。私にとっては貴重な情報ばかりで、「よくぞここまでまとめあげた」が実感だった。
今あらためて読み返してみて、防水業界にとっての貴重な財産である。その後、少なくとも私の手元には、これを上回る集大成された、防水史は無い。

資料第参号「アスファルトルーフィングのルーツを探ねて」その5

「ルーツを探ねて」の「ルーツ」を秋田で発見。

宮田松夫さん見つけました。
「ルーツを探ねて」の情報源だった宮田松夫さんは3年前に亡くなったそうです。

前回の「その3」で投稿してくださった小池迪夫先生は、「近代防水のルーツ」を建築学会や国会図書館などで丹念に「探ね」られましたが、「頭のない分は足で考える」まだ若干若い記者は天然瀝青が露頭・滲出しているという山を見に行きました。もちろんガイドなしではまず無理。そこで案内役をお願いした、豊川油田の歴史を守っている平野さんに、貴重な資料を見せていただきました。初めての資料や天然アスファルトの塊を手にして興奮する記者に、平野さんは半日も付き合ってくださいました。しかも早朝まで降っていた雨は止んで爽やかな空。念のため準備していただいた長靴も不要となりました。こ日の結果は順次紹介してゆきます。

「アスファルトルーフィングのルーツを探ねて」のルーツ

これは豊川油田を産業遺産として、また地質遺産として保存しようという活動を進めているNPO「豊川油田をヨイショする会」の事務局である東北石油(株)の一室にある資料館の展示の一部。

ところでこの本(「アスファルトルーフィングのルーツを探ねて」)が、評価される最大の理由である客観性・丁寧な取材のおおもとがどこにあるのかは、この記念誌編集委員であった小林清純さんが昭和59年7月に記した「あとがき」に読み取れます。小林さんが豊川で、現地や資料を見て興奮している様子がはっきり想像できます。しかもそれは今から30年近く前ですから、人も物も、もっともっとビビッドだったはず。「ああ、うらやましい!」なんてことを言ってはいけない。遅すぎることはない。できること、やるべきことはあるはずです。

「アスファルトルーフィングのルーツを探ねて」あとがき

ルーツあとがき

黒びかりのするアスファルトは日本人の感覚にあわないといえそうです。日本古来の伝統的な文化と全く異質のものを感じるのでしょう。また、アスファルトルーフィングも黒い紙といわれる程度で、一般の人々はもちろんのこと、建築にたずさわる人にもあまり関心が持たれていないようです。
業界ではアスファルトルーフィングは昔から利用されていたということを知っていても、何時から、誰が、ということになると、正確に知っている人はいないように思います。
このたび、日新工業株式会社が創立40周年を迎えましたので、記念としてルーフィングのルーツをさぐることにしました。ところが、アスファルト業やアスファルトルーフィング業は限られた地域で零細な家業として始められたものであり、長い間には震災や戦災が重なり、資料は散逸していて雲をつかむような状態でした。
そのころ、偶然でしたが、秋田の宮田松夫氏と交際ができ、また鹿島出版会の小林弘氏に相談したところ、秋田の県立図書館の本庄平氏を紹介していただきました。それで、秋田のアスファルト事業の資料を入手できた次第です。
大正、昭和に入ってからは、業界の方々のお話を伺ったり、資料をお借りしたり、あるいは関連業界の方々にご紹介をいただくなど、心あたたまるご支援にあずかりました。
資料につきましては国会図書館、建築学会図書館、秋田県立図書館、紙の博物館などから、多数の文献を参考にさせていただきました。
本書の作成には実に数多くの社の内外の人々にお世話になりました。心から謝意を表する次第です。ただ、本文中は人物の敬称は略させていただきましたのでよろしくご寛容のほどお願いいたします。
もちろん、素人が編集したものですので充分なものとは思えませんし、今後ともご指導下さいますようお願いいたします。
また本書の制作には、鹿島出版会の加藤英男氏と笠原邦久氏のご親切なご協力を得ました。深くお礼を申し上げます。

    昭和59年7月

記念誌編集委員 小林清純

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