「今の防水業界がこれでいいのか」「いい仕事をすること、社会的貢献をすることと、防水工事で利益をあげることは両立すべきだ」と考えるあなたに!

2010年 11月22日 号

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2010年 霜月しもつき 平成22年、昭和85年、大正99年、明治143年

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「保護層なんか要らない」というコンクリート屋さんがいたならば、こう言いましょう

匠

匠リニュアル10周年で田中享二教授が記念講演。
匠リニュアル技術支援協会11月13日、14日の両日、練馬区大泉学園の勤労福祉会館で、10周年記念技術フォーラムを開催した。
田中教授の講演テーマは、「鉄筋コンクリート建造物の長寿命化を支援する」 >>全文を読む

慎重かつ長時間の審査

審査

こどもしぜん科学大賞審査 表彰式は11月20日
子どもたちの理科離れ、自然離れを何とかしようという思いで始めた「子どもたちと夢を創る会」のこの活動、もう7年目になります。小柴昌俊科学教育賞の効果でしょうか、今年も力作が集まりました。>>全文を読む

日本書紀の燃土「瀝青(アスファルト)献上」。塚田秀鏡はこう彫った

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日本書紀、天智天皇に献上したのは燃土(瀝青=天然アスファルト)と燃水(=石油)。
防水の起源を間近で見られるチャンス
ルーフネットの仮説 其の2
塚田秀鏡のこの作品「燃土燃水献上図花容器」は最晩年の作品で、かつこのテーマとなる献上図を残すための記念作品として依頼されたものではないか。>>全文を読む

絵日記

くもとクモ  三日月の帰宅  画像の説明


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あるコスモポリタンの憂国(『選択』連載17)

「やむにやまれぬ大和魂」に寄せて

蓮台寺の松陰 昭和42年 前田青邨 

松蔭
紙本淡彩 山種美術館

1854年ペーリーは軍艦7隻を率いて幕府に開港を迫った。25歳の松陰は3月27日下田で米艦に乗り込み、密航を願うも拒絶される。翌日自首し、萩に幽閉された。

決行直前の一週間、松陰は下田に近い蓮台寺温泉の村上医師宅に潜んでいた。机の本は「唐詩選掌故」。
村上家には今もこの机や行灯が保存されており、青邨はこれらを見て、画想を得たといわれる。
青邨が「燃土燃水献上図」を画いたのはこの2年後。

「已《や》むに已《や》まれぬ大和魂」の英訳

表紙

「留魂録」は吉田松陰の遺書である。五年ほど前に英完訳・製本化し、橋本左内著「啓発録」同様、海外の主要大学図書館へ寄贈した。翻訳家でもなく収入を得たわけでもない。むしろ出した。キチンと説明できればの話だが、欧米の知識人の多くは、特に幕末期の志士達には深い敬意を払う。この時代の日本人が輝き、自信を持っており、凜然としていたからであろう。右翼と見られずに愛国者と認識されることが非常に難しくなった今日の我国では、「留魂録」英訳など唐変木も極まっている筈。しかし長年の外国人との対話から、本書は海外に対し戯曲もどきに「日本人を舐めるなよ」といったメッセージも込めたつもりでいる。実態は精神的に何も歯止めがかからず、カネだけが頼りのボウフラのような法治国家となった心貧しい日本人に対し、「舐められるなよ」と鉾先を向けるべき世情だろう。
「留魂録」は読めば読むほど、人間として、こんなにも人に優しくなれるのか、こんなにも国を想えるのか、こんなにも自己犠牲が払えるのか――といった魂の叫びが聞こえ、現代の日本人へ重い警鐘を与えている。
 松陰は人生の大半を獄中で送った人物。それはペリー黒船到来時の国外脱出の躓きと失敗に始まる。国禁を犯した訳である。しかし潔く自首、下田獄から江戸獄へ護送される途上、高輪泉岳寺の前で赤穂浪士に捧げる――として詠んだものが次の歌である。
 かくすればかくなることと知りながら 已むに已まれぬ大和魂

タイトル

 この歌の英訳は新渡戸稲造の「武士道」〈Bushido, the Soul of Japan〉にある。初読はもう四半世紀以上前となるだろうか。碩学も極まる横溢した学識が縦横に展開され、その中にはキリスト、孔子、孟子、ヘーゲル、ニーチェからマルクスといった人物が「武士道」の外輪山のように表出し、引用され、吟味されている。いわゆるノーブレス・オブリージュ(nobless oblige)〈高い身分に伴う義務〉について、余すところなく遡及している。
 当時は備前岡山藩士・滝善三郎の自決の個所が強烈だった。同藩家老の乗った輿が外人居住区を通過した際、フランス人二人がその行列を横切り衝突。砲術隊長の滝は、先方が短銃を持ち出したのを見て、銃撃戦となった。この神戸事件の裁定で、滝は仏、英、伊、蘭、米など内外検証人立会いのもと割腹自決を遂げたのである。この有り様を新渡戸は立会った英国書記官ミットフォードの書から引き出し、滝が左下脇腹に短刀を突き刺して右へゆっくり引き、声一つあげることなく刃を半転させ上体へ掻き揚げる場面を鬼気迫る内容で活写。「武士が恥を免がれ」、「周囲を救う」切腹という儀式と法制度の徳目について触れており、蘭摧玉折の印象が残った。
 本書では後半で「近代日本の最も輝かしい先駆者の一人である吉田松陰が刑死前夜にしたためた歌」として、前述の詠歌が英訳されている。刑死前夜に詠まれた歌は、遺書である「留魂録」の巻頭歌「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」。これが辞世の歌であり、新渡戸に少し誤解がある。しかし「武士道」はクエーカー教徒で米国人妻であるメリー・エルキントンに、妻女としての立居振る舞いを含めた日本人の価値観や倫理観などを知ってもらうためになした著作。史実の詳細において若干の隔たりがあったとしても、作品の真髄や価値には無関係である。英訳は左記枠内のごとくなっている。
 この英訳は、辞世の歌としての肉体的な死、物理的な死を表現しているが、教養ある米国の友人によれば、一九〇〇年頃の表現法であるらしい。いうなれば「いずくんぞ~あらん」といった類の昔流行の表現なのだそうである。

 ところで松陰のこの歌を史実に忠実に、適切に英訳するとなるとどうなるのか?――松陰は下田渡海失敗で自分が死罪(肉体的な死)になることを知っていたのか。そうではなく「島流し」など前科者としての社会的な死(世俗的な死)を覚悟していたのか、によって英訳は異なったものになる。
 そもそも幕府の量刑はどうなっていたのか。体系日本史叢書「法制史」によれば、戦国時代は犯罪人に対し磔、串刺し、鋸挽き、牛裂きなど残酷な刑が執行された、とある。江戸時代となり三代将軍家光は寛永十年(一六三三年)「鎖国令」で日本人の異国渡航を禁止、密航者は死罪と定めた。百十年後の八代将軍吉宗は寛保二年(一七四二年)「公事方御定書」を制定、これが以降の幕府裁判基準となった。しかしこの御定書は寺社奉行、町奉行、勘定奉行らだけに備えられ他見厳禁の秘密法典。何の罪がどんな罰に相当するか公示せず、外部への心理的威嚇戦略をとったのである。
 従って松陰が幕府の量刑基準である「公事方御定書」で、自らの量刑を予測する資料は手元に無かったであろう。しかし「鎖国令」が死罪と定めていることは知っていたであろうし、半端な知識人でなかった松陰は、それが二百年以上も前の法令であり、幕末にそのような事例がないことも又知っていたと予測されるのである。それは五年後の「老中間部詮勝要撃策」露呈時の「高杉晋作宛書簡」(安政六年・一八五九年)でさえ事後、自分の量刑を軽いと予想しており、その一カ月後の「飯田正伯宛書簡」でも自分の刑罰を「遠島」と推測している。以上より下田渡海時には、正確な量刑を予測できなかったものの、たとえ失敗しても幕末のことではあり、死罪になるとは思っていなかったと考察されるのである。
 この考察が正しいとするならば、その英訳は“肉体的、物理的な死”ではなく、“社会的、世俗的な死”となる。ここに結論を得て私はこの詠歌を左上枠内のように英訳した。
「かくすれば……」の「このように」とは、一体「どのように」なのか。個人主義(主語が必要)な言語である英語と、主語が無くとも表現が可能で、多種多彩な意味を包含する簡潔な日本語のエートスとの差異について、知己である米国人Cheiron McMahill氏にしばしば教示を受けた。彼女は米国Washington大学で英語学(BS)を、Georgetown大学で日本語学(MS)を修め、英国Lancaster大学で応用言語学のPhDを取得した言語学研究者(群馬女子大学教授)。彼女は日本人と結婚し、また神道の帰依者でもある。
 この英訳が最善かどうかは分からない。「表現」における西洋と東洋の心の在り方、つまり「持つ人生」と「在る人生」の間の深い渓谷にまで入り込むことで、最適な翻訳が極まるのであろう。

(2008年6月「選択」)

2010/11/16(火) 01:57:35|MUSICフォーラム|


「BOUSUIデジタルアーカイブ」防水歴史図書館

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我が国の防水の歴史を考察する上でどうしても欠かすことのできない文献が何冊かあります。
防水歴史図書館(BOUSUIデジタルアーカイブ)では、そんな文献を1冊ずつ選び、本が書かれた当時の様子、おもな内容、その本のどこが「すごい」のか、現在生きる人たちにとって、どんな価値があるのか、それぞれの資料を担当するキュレーターが、時には執筆関係者への取材を交えて、分かりやすく解説します。

  • 主な収録項目

資料第壱号「アスファルト及びその應用」

資料第弐号「日本アスファルト物語」 (編集中)

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