「今の防水業界がこれでいいのか」「いい仕事をすること、社会的貢献をすることと、防水工事で利益をあげることは両立すべきだ」と考えるあなたに!

安藤邦廣氏にきく

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安藤邦廣氏にきく

安藤邦廣氏にきく

屋根で傾奇く(かぶく) 茅葺き職人はアーティスト。だから彼らは元気なんだ。
筑波大学名誉教授・安藤邦廣氏に聞く

左 P2120416

右 P2120988

ほんの百年ほど前まで「最も安価な屋根」が茅葺きであり、今では「最も高価な屋根」が茅葺きである。茅はススキやチガヤなどを指す言葉であるが、一般的にはススキ、茅、葦(アシ、ヨシ)稲ワラ、麦ワラ、笹など、身近な草を刈り、屋根に葺いたものを広く茅葺き屋根と言う。一方、用いる材料により茅葺き(かやぶき)藁葺き(わらぶき)あるいは草葺き(くさぶき)と呼んで区別する場合もある。

一番身近な草で葺くわけだから、ヤシが生い茂るアジアの南の国ではヤシの葉で屋根が葺かれ、日本でも茅や藁が手に入り難い山間部では木の皮や、板を割いた木端、時には笹で屋根を葺くことになる。
勝手に生えているものを刈って使うから基本はタダ。農村山村の普通の人の普通の住まいや物置小屋が手近な安価な材料で葺かれてきたのだから、これらの材料が手近でなくなってきて、金属(トタン)の板の方が安くなった時、それに置き換わるのも自然の流れというものだ。

今、多く茅葺き民家の屋根を金属が被っている。

茅葺きファンから見れば茅葺き屋根が金属葺きに変わるのは苦々しいことだ。しかしある茅葺き職人は、金属板で覆われた茅葺き屋根を「缶詰(カンヅメ)」と呼び、単純に否定するのではなく、「缶詰屋根は茅葺きという文化を伝えて行く上でとても大切」と新たな価値を見出し、肯定する。それはどういう意味なのか。2013年、初めて京都深山・京街道沿いに残る茅葺民家群を訪ねて、その印象を写真で紹介したのが、(一社)日本金属屋根協会の機関誌「施工と管理」2014年1号掲載の、「あの屋根この屋根」~茅葺屋根の缶詰はタイムカプセル?」だった。(これは同協会のHPhttp://www.kinzoku-yane.or.jp/feature/index.htmlで、御参照下さい)

※ ※ ※

その年参加した日本茅葺文化協会のフォーラムで、研究者と茅葺民家のオーナー、職人たちの熱気に圧倒されてしまった。なぜ茅葺き職人たちはこんなに元気なのだろう?老職人が尊敬され、若い人たちが各地の中堅リーダーへの弟子入りを希望するのはなぜ?

昨年2014年8月19日、民家研究、茅葺き屋根研究の第一人者で、日本茅葺き文化協会を主宰する、筑波大学安藤邦廣名誉教授を、つくば市北条の事務所に訪ね、その秘密を聞いた。

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2015.6.7広島茅葺フォーラム見学会で。

バスが到着したら、小走りで撮影ポイントに向かう安藤先生。首にはLズームの付いたキャノン5D2 がいつも掛かっている。その重さ約2キロ。先生より若干若い記者だが、この重さに辟易して2年前から小型軽量のマイクロフォーサーズ機に乗り換えた。「先生いつもそれを持っているんですか?」と聞くと「これで撮っておくと何にでも使える(高画質)からね」と、涼しい顔だ。

ルーフネット:トタンで覆われた美山の茅葺き屋根をしばらく見ているうちに、つくる側も、住み手もその建物を大事にしている、その愛情が表れていることを感じました。

安藤そうだね、どんなものでも職人が丁寧に作ってくれたものは大事にしなくちゃ罰(バチ)が当たる、と思う。
職人は「物を、材料を大事に仕事しなきゃバチが当たる」といい、ユーザー住む人は、「職人さんがこれだけの仕事をしてくれたんだから、大事にしなきゃバチがあたる」と思う。バチあたりがバトンリレーされて、最後に壊すときも、「壊したらバチが当たる」といい、捨てる時も、「捨てたらバチが当たる」という。バチあたりの循環だね(笑い)。島国の中で、バチでつながっている。 「ものを大切にする心を乱す者はバチ当たり」なんだよ。

ルーフネット:茅葺き屋根を覆う金属をライバルとして否定するのではなく、「缶詰という視点」で評価する茅葺き職人の強烈な自信・柔軟な感覚にショックを受けました。

安藤「カンズメ」と塩澤君が5年ほど前に言った。
この言葉は、茅葺きの過渡的な形ととらえている。新しい視点、新しいスタイルの出現、意識革命だね。

言い訳にならない理由が重なって、インタビューから1年がたってしまったが、その時のお話を、数回に分けて紹介する。
(安藤邦廣氏インタビュー 2014.8.19取材・北条にて)

2015/09/29(火) 00:43:47|茅葺き文化|

安藤邦廣氏に聞く(1)

日本の茅葺のピークは昭和30年代

なぜ茅葺き職人たちはこんなに元気なのだろう?老職人が尊敬され、若い人たちが各地の中堅リーダーへの弟子入りを希望するのはなぜ?昨年2014年8月19日、民家研究、茅葺き屋根研究の第一人者で、日本茅葺き文化協会を主宰する、筑波大学安藤邦廣名誉教授を、つくば市北条の事務所に訪ね、その秘密を聞いた。

画像の説明

日本の茅葺のピークは昭和30年代

1980年代、日本の茅葺きは絶滅寸前だった。

私が茅葺きの研究を初めたのは1980年代だから、もう30年以上前のことだ。
そのころの茅葺きは最悪の状況、どん底、と言っていいだろう。とにかく後継者がゼロだったんだから。だから研究した。「自分が今、研究しなかったら茅葺きは途絶える」と思った。
もし技術が途絶えても記録が残っていれば、記録に基づいて技術は再生する、「研究論文の対象」について言えば、今盛んな分野のものは手をつけなくてもいいんですよ。今無くなろうとしている、途絶えようとするものあるいは途絶えたもの、を掘り起こして、新しい芽を見つけることが、学術研究の大事な役割だと思うね。

分野によってはゼロから起こす研究もあるけれど、僕が取り組んでいるような分野では、「無くなりつつあるものの記録」という視点が大事だと思う。建築は科学というより技術と文化だから、人間の営みの中に手がかりがある。

「滅びるもの」というのはとても大事な研究対象であり、そこに研究の意義、我々研究者の存在意義がある。

当時、茅葺きはもちろん民家自体がすでに絶滅危惧種だったから、民家を研究した。民家の中にこれからの我々の生活や、建築に役立つ知恵と日本人がこの日本の気候風土の中ではぐくんできた技術が、その中に眠ったまま忘れられようとしていたわけだ。

そういう民家を研究するうちに、茅葺きに行き着いた。知恵と気候風土に育まれ、そして忘れ去られようとしている技術の最たるものが茅葺きであることに気が付いたわけだ。民家の中でも最も危機的な物が茅葺き屋根だった。

学位論文は1983年に「茅葺きの研究」でしたね。

そこで茅葺き屋根研究にどんどんのめり込んでいった。研究というのは最も危機的な部分、必要に迫られている部分をターゲットにするものですからね。

研究費を獲得するにしても、研究の評価を得るにしても、周囲が必要性を感じているものだと話は早い。そして何より今研究しないと、茅葺きは人から忘れられると思った。世界から茅葺が消えると思った。まだその時点では、その研究に何の意味があるかはよく解らなかったけれど、茅葺をなくすことは、学術的に大きな損失だと思ったんですね。

まあとにかく1980年代は正にそんな時代、茅葺が滅びる寸前の時代だった。
私は全力で記録し、聞き取りし、各地の茅葺の技を調査して回った。

茅葺きの材料や技法に関して地域差は大きいです。東北と関東、関西と全く違う。沖縄は全然違うし、アイヌは全く別だからね。

私一人の手におえることではなかったけれど、とにかくやれるだけのことをやれば、後に続く人は出てくるだろうと思った。そんな思いで10年やった。

その時期、私は60歳代70歳代のベテランの最後の茅葺き職人たちに話を聞くことができた。その人たちは戦後間もなく職に就いた人たちなんだ。その背景はこうだ。

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本堂と庫裏、その間をつなぐ渡り廊下の屋根も茅葺き。2015年の茅葺きフォーラム広島では、翌日専徳寺を見学した。

戦後復興は農村から始まった

終戦後農村は、食糧増産政策のおかげで、景気が良かった。

戦後の復興期に一番景気が良かったのは農村だった。都市は荒廃して、多くの国民は農村に疎開していた。食料と燃料に恵まれた農村は豊かで、復興の波に最初に乗った。「大建設時代は農村から始まった」、と言える。農家は景気が良くて、農家はどんどん屋根にお金をかけた、当時は屋根といえば茅葺きだった。米を作ればどんどん売れる、高く売れて、経済的に豊かだった。農村に金が集まると農家は、その金でどんどん家を立派にしていった。昭和30年代もまだそんな時代ですよ。茅葺き屋根もどんどん葺き替えられていた。ただこの時の茅葺きといってもそれは茅ではなくて小麦藁だった。

当時は食糧増産で必ず二毛作をしていた、米を作った裏作で小麦を作った。関東あたりまではね。関東周辺茨城、栃木も群馬も、皆、屋根は藁葺きだった。だから藁葺きといった方がいいくらいだ。茅なんてない、従来萱場だった山や野原はどんどん田畑になる、山だってだんだん畑にしていったくらいだから、茅場にしておくような土地はない、茅場になるような場所はみんな田畑だ、イモも作ったしね。

茅葺きのピークは昭和30年代

だから昭和30年代といういのは、農地が最大に拡大した時代なのです。

この時代に茅葺きの個数は日本の歴史上で最大になったのではないか、江戸時代、明治時代に茅葺きがありましたというが、数において、この戦後30年代あたりが最大の戸数だったのではと思っている。母屋だけじゃなくて、倉庫や小屋を作る。それを茅で葺くから、すごい量になる。だから「日本の茅葺のピークはいつですか?」という質問があれば、それは昭和30年代ということになる。

膨大な茅葺き需要に対して、茅はない。有るのは大量の稲ワラと麦ワラというわけですね。だから稲・麦ワラで葺いたんですね。

いや、茅のもうひとつの大きな用途は牛馬の飼料だ。それから稲ワラなんて脆弱だから、2~3年で腐ってしまう。だから大事な部分には使えない。せいぜい厚みを出すために、軒つけの下葺きに使ったくらいだ。

でも小麦藁なら10年もつ、中空でシャキッとしている、撥水性もいい。その点では茅と同じだ。

ヨシ、葦は専用の育成場所がいるし、茅にしても当時はそれが生える里山の草原も不足、雑木林では燃料(薪炭)を取っていた。田畑をどんどん増やしていたから、草原・茅場は縮小した時代。とった茅の一番大事な用途は牛馬の飼料だから、屋根に葺く余裕はなかったと思う。だから麦わらと稲わらを使った屋根が30年代にはものすごく増えたと思う。

そういう中で何が起こったかというと、茅葺きという作業の急増です。ススキ(茅)だったら30年は持つ。稲わらは問題外として麦でも3分の一の10年しか持たない。でも現実には麦しか使えないのだから葺き替え頻度が増える、仕事が増える。長持ちする材料だったら、例えば、瓦や銅板なら100年もつとしたら、麦わら葺きは10倍の仕事量があるわけだ。

材料のワラは農家だからタダみたいなもので、ワラの循環的利用が実現する。ワラは最後には肥料になるんだけど、その前に、肥料になる前に屋根に葺くわけだ。

こんな状況だったから職人さんが猛烈に増えた、茅葺き職人が最も多く存在したのは30年代だと思う。

だから調査を始めたころ80歳くらいの老人に聞くと、どんな村にも必ず3人や4人の茅葺き職人は村にいたと話していた。当時農家で食っていけない家や二男三男坊は大工・左官・屋根屋になった。男の兄弟が何人かいれば、必ずその中に大工、左官、屋根屋がいたわけだ。

兄弟の中に屋根屋は一人いた、というくらいだ。その屋根屋が地元で葺き、出稼ぎにも出る。

戦後の復興期に、猛烈な建築ラッシュがあった。プレハブ住宅なんか出る前だったから、既存の茅葺屋根住宅ストックを利用して直す、すなわち茅の葺き替えが頻繁に行われた。都市の住宅建設が始まるのはもっと後のことだ。

まず農家を復興、農業が最大の産業であった最後の時代。だったといえる。

当時、最も早く、安くできる家は茅葺きだった。もちろん藁葺ね。それで雨露を防ぎ、米を作って、山で薪を拾って、炭を焼いて、都市に出荷していた。それで日本の復興が始まった。

とにかく燃料と食糧、がなければ動けない、町場なんて生きて行けない時代。何も売っていないんだから。都市近郊の農家から供給される米、炭が頼りだった。

それが地域でいうと京都だったら美山、福知山。東京だったら、千葉、茨城、栃木、群馬と利根川水系あたりのことになる。(続く)

バス内 安藤先生 P2130162 (2)
2015.6.7 日本茅葺文化協会広島大会の現場見学。バス内で挨拶する安藤氏。

次号以下の予定
2.「皆が何に取り組み、どこに生産の重点を置いているか」それが屋根に現れる
3.屋根屋はアーティスト
4.茅葺は究極の観光資源 五輪施設を茅葺で

2015/09/29(火) 00:43:47|茅葺き文化|

安藤邦廣氏に聞く(2)

筑波大学 安藤邦廣名誉教授に聞く(2)

「皆が何に取り組み、どこに生産の重点を置いていたか」それが屋根に現れている。

廣島見学 P2120778
芸州茅葺き屋根。

RN この時代が茅葺きのピークだったというのは、驚きました。すると戦後の復興期の前の時代はどうだったのでしょう?

普通皆さんのイメージにある伝統的な茅葺きだよね。江戸時代の安定した社会の中で、やっぱり茅ですよ。ムギ、イネではなくてね。村には茅場があり、牛馬を飼って、養蚕をやって、それぞれ、地域的な副業特産物を作って、生活の営みがあった。

今茅葺き屋根が残っている地域を調べてみると、一番多いのは都市の周辺。四国、九州はほとんどない。ということは、戦後の復興期に茅葺が増えて、たくさん作られた地域は、中には立派な茅葺きを作ったところもある。そのいくつかが残っている。

都市との経済関係、経済的な背景。その時代に経済的に潤って、立派な家を作って立派な茅葺き屋根を葺いたところがある。その後、屋根は、もちろん家は愛着を持たれ大事にされた。その景観は地域の宝と、とらえられるようになった。

それから戦後の復興が一段落して、遊休農地が増え、茅が増えてきた。増えてきたのなら今度は藁ではなく、本来の「茅でやればいい」。ヨシ、葦についても琵琶湖や霞ケ浦でも刈らなくなった。昔はヨシなんて高級品。京都ではヨシなんて最高の値段なんだから、とても屋根なんか葺けなかった。でも今は腐るほどあるから、葦で葺いている。いつの時代も一番安く大量にあるもので葺くんですよ。

今、建物の屋根に鉄が多いのは、鉄が安いから。だから鉄で葺いているだけなんだ。日本の中で、もっと安価で大量に安定して供給できるもので屋根を葺くんだ。それが民家の屋根なんだ。

ある時代に、みんなが何に取り組み、どこに生産の重点を置いていたか、ということが屋根に現れている。

戦後はコメだけじゃ間に合わないというので、日本中で、できるところは二毛作をやった。

hiroshima 会場 質問
広島の茅葺きフォーラム会場。一般参加が多いのもフォーラムの特徴だ。

茅葺きは農業の象徴。

日本の食糧生産のピークは戦後、30年代ですよ。農業が最も盛んだった時が、茅葺屋根のピークだった。立証はできないけどね。
それから時代が進む。

この後は工業の時代、都市化の時代です。職人たちはみんな転職した、茅葺職人をやめて、工場労働者になったわけだ。集団就職で、出稼ぎで、みんな東京や大阪に出た。話を聞くと、高度成長の時代、彼らは茅葺をやめて都会へ出て、工場や建設現場で働くわけだ。おもに建設現場で、とびや足場の施工に携わった。
戦後10年ほど屋根屋をやって、高度成長期に都市へ出て、30年ほど働き、定年になって故郷に戻って、屋根屋を始めた。そんな人が多かった。

戦後10年ほど、食糧増産の大号令が発せられ、その一瞬屋根屋は急増し、そして途絶えた。

食料は輸入すればいいという政策に転換し、農業人口は減少、茅葺屋根の需要は減る。職人は転職、後継者はいない。こんな産業には未来がない、街に出てサラリーマンになるか、工場で働くか、ビルを作るかだ。「茅葺き職人の後継者ゼロ」がずっと続いた。

それが1980年代の様子。私が研究を始めたころの話だ。本当に後継者はゼロだった。その時のわずかな高齢の職人が辞めたら、誰もいない。

小 中野、相良P6060419 (2)
相良さん(左)、中野さん(右)

そんな時に、出てきたのが、中野君と、西尾君たちだった。2人とも大学卒、美山で職人に弟子入りした。1990年のことで、当時25歳。今45歳だな。残っていた親方たちは60代。もうすぐ引退、いいところあと10年。最大でも20年、彼らが死んだら茅葺はおしまい、農村の茅葺き屋根はおしまい。というところだった。後継者なし、茅葺職人ゼロ、せいぜい京都の茶室の茅葺きをやる職人がいるくらいだ。

で僕は出かけて行って彼ら、2人に聞いた。「何で茅葺きやるんだ?」って。彼らは思いを語った。それから、あの2人とは長い付き合いになった。僕たちは仲間です。

最近の職人たちは、皆彼ら(中野、西尾)の弟子です。それから二人と言いましたが石巻の熊谷秋雄君も加えなければ。彼もおもしろい男で、年齢は中野君達より少し上、50歳くらい。彼の実家の稼業がヨシやさん。北上川河口の最大のヨシやさんだった。海外青年協力隊でフィリピンに行っていた。畜産を勉強、農業支援、フィリピンで活動し、ルソン島で茅葺に出会ってるんだね。いろいろ世界をみて、家業を継ぎたいと戻ってきたようだ。ヨシとヨシ葺きに自分の未来がある、と思ったんだろう。

この3人が日本の茅葺きを支えている。彼らの視野は広い。熊谷君は畜産を学ぶ中で、茅の植物資源としての価値が見えたんじゃないかな。日本、アジアの国々は、その植物資源に根差した文化だ、それがどんな形に生まれ変わるか。そこで彼は弟子をたくさん育て始めた。西尾や中野が付いた師匠が鶴岡建設で、ここに中野、西尾の他に若い連中が集まり始め、尾坂なんかも行った。

美山 中の軍団 P6140023
京都美山茅葺きの中野軍団

廣島PD石井 3人 P2120530
中国地方の茅葺きの特徴を語らう。

今の茅葺き技術を言ってみれば「東の熊谷産業、西の鶴岡建設」

基は同じ、絶滅しかけた種が、そこから拡がった。根が同じでみな兄弟みたいなもんで、仲がいいのはあたり前だ。兄弟だから喧嘩もするが、基本的には仲間だ。

RN ものすごい熱気というか、エネルギーを感じたのはそれだったのですね、

茅葺き職は極めてマイナーですよ。自分たちはマイナーだから、少数民族だから、という意識がある。マイナーであればあるほど、結束は固い。周りは敵なんだから、協力しないと生きて行けないでしょ。板金、瓦、もちろんコンクリート建築は敵。今ある都会のハウスメーカーなんか全部敵だったわけだ。そのなかで生き残っていかなきゃならないんだから、内輪で喧嘩してる暇はないでしょ。
中野も爺さんが茅葺職人だったんだ。彼は若ころから音楽で放浪し、ある時、思うところあって、母親の猛烈な反対を押し切って…。そして戻った。繊細な男です。

茅葺きという仕事が、滅びる寸前に中野・西尾・熊谷という3本の芽が出た。それぞれが弟子を育て、それが30人になり、100人近くにまでなってきた。みんなおじいちゃんが、同じ、みたいなもんで、大家族ですよ。分家みたいなもんで、元をただせばそこへ行きつく。今中野、西尾、熊谷が育てた新世代の弟子たち、2代目が活躍を始めた、今はそんな時期だ。

だから彼らの茅葺は今までの茅葺とは全然違う、時代背景も違うしね。農家の茅葺きじゃないんだ。 農家の経済力を背景に花開いた茅葺とは違う。違った価値観で茅葺をとらえて、模索してるんだ。 僕だってそれが何かわからない。

RN ノスタルジーじゃなく、単なる保存じゃない。最新の建築素材と競争できる素材ととらえている、その考えが新鮮でした。

だから彼らは海外によく行く、フランスはどうだ?イギリスは? 一番茅葺きの多い南アフリカは「どうなってるんだ?」と見に行くわけだ。武者修行に行くんだ。向こうも元気のいい若いのが来たら歓迎するよね。「見どころがある、よし」、といっていろいろ教える。
向こうでは茅葺は最高の贅沢ですよ。評価も高い、「こりゃ日本でも行けるかもしれない」と思う。

そのままじゃないけど、「日本とは違う世界がある」ことを知るのは、とっても大事だよね。で、自信持って帰ってくる。「もしかしたら俺たちは新しいヒーローになれるかもしれない。」と感じてくるんですよ。

彼らは、何らかの挫折を経て、今の仕事についている人が多い。いろんなことをへて誰もやらなかった茅葺きなんていう世界に行きつく。

研究者という人種は迷いがあって、さまよっている。自分の中にも迷いがあって、あるいは真っ直ぐ歩くことができない人間なんだから。だからいろいろ調べて、道草を食うわけじゃない?道草食ってんだよ。そういう人が何か新しいものを見つけるんだよ。世の中で働きの悪いやつなんだ(笑)。研究者なんてのはね。

このあいだ面白い話を聞いた。

蟻は100匹いると、そのうちの20匹は必ず怠けてるんだって。何もしないで、待ってるだけ。「こいつら何もしない」からといってその20匹を排除する。すると100匹に増えた時、また20匹は怠けるんだって。これは集団の問題。外的にやられた時や、病気が発生した時に備えて、種、集団の維持のための必要な存在なんだそうだ。
研究者てのはこれだよ。怠け蟻(笑)。現在は稼がないけど、未来のために備えてるんだ。今の社会では小泉政権以来、競争社会の中で、稼ぎのない連中は排除されてきたわけじゃないですか。20%を排除した結果、あらゆる部分で、軋みが出てきている。あらゆるところに競争原理をもちこんだから、スタップ細胞まで出てきた。本来怠けるべき奴を無理に働かしたら社会は死ぬんだよ。

RN 中野さんの弟子たちみてると、ここにいなかったら暴走してるんだろうなあ、という感じが漂ってますね。

ヤンキーだよ。エネルギーが余ってるよ。エネルギーは余ってる、だけど何か社会にそぐわない、疎外感を持ってさまよっている人たちですよ。これはどんな社会にも必要な人たちなんですよ。新しいことが始まるための予備軍なんだ。

RN 彼らにとって「ひょっとしたらおれたちはヒーローになれるかもしれない」という予感は大きいでしょうね。

若い人たちだから野心はある、未来がないことは絶対やらない。でも先は見えないけど「これはおれしかできないことかもしれないが、俺ならできる」、「これならトップに立てる」、そう思えれば。賭けるでしょ、男なら。博打みたいなもんだけどね。確率の低い。(笑い)

RN 仕事というのはカッコ良くないといけないと思うんですよ。彼女に、息子にかみさんに「カッコいい」と思われたい。

「金じゃないですよ。男なんて、名誉欲だけで生きてるんだから。(笑)」金は後からついてくるんだ。

2015/10/14(水) 00:09:15|茅葺き文化|

安藤邦廣氏に聞く(3)

筑波大学 安藤邦廣名誉教授に聞く(3)

屋根屋はアーティスト

安藤ものくろ
左から3人目が安藤邦廣先生。2015年10月12日、山形県川西町竹田家住宅。

なぜ茅葺き職人たちはこんなに元気なのだろう?老職人が尊敬され、若い人たちが各地の中堅リーダーへの弟子入りを希望するのはなぜ?昨年2014年8月19日、民家研究、茅葺き屋根研究の第一人者で、日本茅葺き文化協会を主宰する、筑波大学安藤邦廣名誉教授を、つくば市北条の事務所に訪ね、その秘密を聞いた。今回はその3。

結局ね、今の茅葺屋さんはある種のアーティストなんだよ。

今の茅葺の価値はアートなんだと思いますよ。
昔の経済の競争原理の中での技術(もちろん技術はあるんだけど)とは違って、彼らが目指しているのはアート。アートの背景はエコロジーだと思う。
現在は社会の中で経済が最優先でしょ。経済的な価値から落ちこぼれるのはエコロジーとアートだと思います。なんの金にもならんもん。でも社会的に必要だから、企業にその分担を課したりするけど、本来自発的な物ですよ。

茅葺きというのは、そんなところに位置しているから、ある種、「正しさ」があるんでしょう。間違ってない正直なものがあるってことで、嘘を言わない。茅葺は嘘を言わない。悪いものは何もない。そこは日本人が大事にしてきたものなんだ。万物が宿っている

自然の素材を借りて屋根に置く。役割を終えたら土に返す。住まいは「仮の住まい」という思想が日本人の根底にある。茅葺きは仮の住まいという本質を持っている。人間は永遠を求めて、ステンレスや、銅板、チタンなんてものを使ってきたけれど、本来は仮の住まいという考えに帰結すると思う。

茅葺きは日本人の仮の住まいという価値観に添った素材である。その上で現代の新しい価値観、アートとしての表現を可能にする素材。そういう茅の持つ性能に光を当て、みんなに知らしめる必要がある。いま、茅葺きであることをアピール・表現しなきゃならない時代だ。

茅葺きが当たり前の時代は、静かで、簡素でいいんです。合理的で。余計なものは要らない。 民家というのはそういうものです。昭和30年代までの茅葺きはそうだったんです。無駄はないし、エコロジーそのものだし。循環して清く正しい世界だよね。

だけど茅葺が無くなった時には、「これが茅葺だ、見てくれ!」と言わないといけない、存在すら忘れられている時には、主張しなければならない、アートが必要なんだ。

少数派。絵、詩、芸術はすべて少数派から生まれる。文学、音楽しかり。滅びる寸前に素晴らしい表現が生まれる。

建築だって同じだよ。茅葺きっていう建築は絶滅危惧種だからこそアートとして表現し、アピールしていかないと生きてゆけない。そこに彼らは自分の生き方を重ねて、この世界に入ってきた。 だから彼らはアーティストですよ。中野だって塩沢だって、みんなアーティストだと思うよ。そんな顔してるもん。金儲けする人の顏でもないし、いわゆる職人の顏でもない。無口でもない。

shiozawa
山道を車椅子で分け入り、滋賀大学の学生達の再生した民家の屋根を見る。

昔は無口な職人が茅葺きの屋根を作った。今は大いに語り、表現して、着るものも他人(ひと)より目立つ格好してね。伊達というか、屋根屋さんは、傾奇(かぶ)いているんだよね。傾奇かないとこの茅葺きは生まれ変われない。そんな状況に茅葺きはあるから傾奇くのは必要なことなんだ。多数派がやったらおしまいだけどね。

多数派は黙々と静かにやってればいいんだよ、少数派はおおいに声を上げて、困難に立ち向かい、本来持ってる素晴らしさを表現し主張しなくちゃいかん。

画像の説明

キース・ヤネット。フォーラムの後の見学会。昼食をとった公民館の片隅に置かれたピアノを見つけ、即興演奏を始めたヤネ屋。

少数民族の問題があるでしょ、中国だって、日本でもアイヌなど。それらが素晴らしく評価されているのは、その中にある、多数派が忘れた価値があり、失ってはならないものがあるから、それをみんなが絶賛するわけですよ。同じように多数派が忘れ、失ったものを表現するから茅葺き屋根は、みんなを楽しませている。現代の工業材料が失った自由な造形、手仕事の素晴らしい世界が表現されている。

比較的自由度のある銅板でも、茅葺のような自由な表現はできない。瓦はもっと不自由だ。

茅葺きの自由度は無限。そこに彼らは直感的にやりがいを感じている。偉いのは勝手にやっているんじゃないんだ。技術はきちんと継承しているんだ。技術は我流では絶対ダメだ。きちんと継承した上で、修行に出て、親方から学んだうえで、自分のものにした上での表現だ。

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本殿、庫裏、渡り廊下まで一体化した、大きな茅葺き屋根の寺。茅葺きにこだわるヒッツメ髪の住職とオシャレな職人の茅葺き談義が弾む。

設計者が屋根の細かな納まりまで図面描いて、このとおりやれなんて言ったら、建築は死んじゃうんだ。それが現代の建築の限界ですね。図面で表現できるのは基本的な部分のみ。部分の造形は委ねないとダメなんだ。デザイナーは全体の関係性、他との関係性をコントロールして、細部の造形は現場に委ねるべきだ。今の建築家はそれを細かく書いて、この通りやれ、というのが多い。それはエゴだし、大した建築にならない。

茅葺きというのは茅を使用する限り、何をやったっていいわけだし、茅は弱い材料でしょう。害がない材料でしょう。廃棄されても害がない。 そういうものは無限の表現がOKですよ。無制限に許されるべき。そこに彼らは面白さを感じていて、自分の責任で何やってもいい。はさみ一丁で自由にできる仕事。ある種の彫刻だよね。

彼らに「なぜ茅葺きやってるんだ」と聞くと、誰もが「材料の集めから、最後の仕上げまで、たった一人でできるのはこれしかない」という。あらゆるものつくりの世界で、一人でできるのはこれしかない。道具や材料だって、誰かに頼らないとできないんだけど、これは一人でできる。

もちろん中には「傾奇く」連中だけでなく、人とのかかわりが苦手で、ひとりでコツコツやりたいという人もいる。茅葺きはそれができる。いろんなやり方を受け入れる懐の深さがある。ひとりでコツコツ茅をあつめて、ひとりで葺いていけばよい。茅葺きはそれができる珍しい技術です。材料は自分で刈ってきて、束ねて、葺いて仕上げて、全部自分だけでできるのは茅葺だけだと思いますよ。

茅を刈って来たら喜ばれ、普通だったら「盗まれた!」といわれるところを「ありがとう」といわれ、どこでも感謝される。職人不足だから葺きに行ったら、「屋根屋さんよくきてくれた」「おかげで先祖に顔向けできる」と喜ばれる。職人の数が少ないから競合はない。あまり増えたら儲からないけどね。仲間同士喧嘩嘩しない。

茅葺きの置かれた現状を見れば、社会的環境としては最悪なんですよ。職人数が絶対的に不足している、少数絶滅危惧種であるという現状において、ハンディキャップを持っている。でも、だからこそ先ほどから言っている茅葺が本来持っている利点を生かして、その悪条件をひっくり返してやろうという、エネルギーが生まれている。
(続く)

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2015年10月11日・12日、日本茅葺き文化協会の第4回茅葺きの里見学研修会は蔵王・吾妻山麓の茅葺きを巡りました。余談ですが、米沢の街は傾奇者(かぶきもの)慶次・こと前田慶次が晩年を過ごした地です。平成21年には「米澤前田慶次の会」が設立されました。

2015/10/23(金) 11:19:53|茅葺き文化|

安藤邦廣氏に聞く(4)

筑波大学 安藤邦廣名誉教授に聞く 最終回

茅葺きは究極の観光資源 五輪施設を茅葺き屋根で

安藤5 PA110499

22条による差別をどう乗り越えるか?

法的にも迫害されている。

茅葺きは火事に弱いという理由でほとんどの地域に建てられない。不当な差別を受けている。

一つ一つ見れば、まわりに家がない、火を使う可能性がないなど、問題がないこともある、にもかかわらず、一様に網をかけて、ある県なんか99%まで22条地域に指定してしまって、山奥にも建てられない。不当な差別だ。そういう人たちの権利を保障しなくちゃいけない。

RN その迫害は、ある種の人たちが、何らかの意図を持って、推進しているんですか?

行政は代弁者にすぎないけど、それはある意味で、時代の精神ともいえる。
ある時代の精神なんだよね。乱開発を規制しようという時代にできた規制だった。都市計画に網をかけないと乱開発が起きて自然が破壊されるという考えにに基づいている。だから届け出制にする。都市を田舎に広める政策、都市拡大政策、都市経済、大企業・大資本の利益になる制度といっていいと思う。それはその時の日本人の合意による制度で、ある時代の流れ、国を作る方針だったわけだ。それ自体が悪いわけではない。だけど、それが行き過ぎてることが、時代が変わったにもかかわらず、強い力を持っていることがおかしいわけで、それは正すべきでしょう。それが悪ではない、ある時代にいいことだったけど、次の時代には足枷になる。それは修正し、規制緩和すべきです。だから元気な茅葺き職人たちはそれを修正しようと発言しているし、茅葺文化協会はそれを主張している。

協会を立ち上げた理由のひとつはそこにある。

みんなで声を上げて、不当な規制を正してもらおう。農村で育まれ、長い歴史と文化を持っていると同時に未来において有効な技術が、この規制によって疎外されていることは不当であると。

RN 葺く側の訴えだけでなく、建て主というかユーザー側の発言も必要ですよね。

そう。いわゆる業界団体ではダメなんです。

ユーザーというか所有者も同じ境遇にある。高くて葺けないとか、茅葺きであるが故の差別があるから、助け合いましょうということなんだ。だから茅葺き文化協会の三分の一は茅葺き民家の所有者です。職人が三分の一、所有者が三分の一、後は研究者や写真家や好きな人いわゆるサポーターです。業界団体じゃないんです。

RN その他に、活動を有効に推進してゆくために、どんな分野の力が必要とお考えですか?

造園屋、植木屋、庭師!!彼らとも共通点は多い。ほとんど同じ道具、はさみを使う、縄結びをつかう。技は共有しているし、高所作業でしょ。造園屋さんの中にも茅葺きをやりたいという人は多い。茅葺きをやらないと仕事にならないともいう。 門や、茶室、一々茅葺き屋根屋さん探してくるのは大変なんだよ。自分でやれたら儲かるかもしれない、と思っている。

必要性は高い。庭というのは日本の昔からの風景を再現するシーンもあるから、東屋、待合、寄合、ほんの小さい屋根がある。ほんの少しなんだけれど、茅葺きの点景がないと、造園が成り立たないことがある。樹木と石だけでは庭にならない。

こういう人たちや、庭を愛する人たちが一緒に声を上げてくれたら、大いに力になる。

日本庭園協会という団体には著名な日本画家や写真家、いわゆる文化人が属している。

庭というのは男の最後のロマンだから。平安貴族から、室町の将軍、明治の元老たち、経済界をリードした人たち、最近のIT長者まで、財をなした多くの人は最後には庭作りに腐心した。
その時に、庭に欠かせない茅葺きが時代遅れの規制で作れないと困るじゃないですか。京都の東山別荘群をはじめ、小田原や箱根の別荘群。庭師の仕事がなくなるだけじゃなくて、日本文化の核心ともいえる庭を愛する人も困るんですよ。

RN 彼らの発言力は大きいですよね。

うん政治家や、大企業の会長もいるだろう。だから彼らにも茅葺文化協会に入ってもらって発言してもらいたい。

安藤4 PA110405

あなたも茅葺きがお好きでしょ?

RN あなたも困るでしょ、といえばいいんだ。

いや「あなたもお好きじゃないですか」という。

いっしょに仲間に入ってください。22条でここに茅葺きを建てられない。規制緩和して、全体規制でなく、地域に応じた地域ルールでやっていけるんじゃないですか?と訴えてゆく。このあたりへの、広がりが、まだできてないところで、これからの課題です。茅葺きは貧しい世界だとまだ思っている。違うんだ。最も贅沢な世界なんですよ。

あらゆる贅沢なものを食って、最後に梅茶漬けが一番うまいとい世界かもしれない。

こういうところと、連携ができないとね。規制緩和を進めるのは力が必要だから。みんなの理解を得るためには時間がかかる、力のある人、日本をリードする人の発言は必要です。

それからね、観光面でも大きな損失ですよ。

最近,民家調査で中国へ行ったんですよ。中国人に「どこに行きたい?」と聞いたら「京都、奈良にはあまり興味がない」という。あれは我々の文化のまねだから、悪くはないけど、特に興味はないというんだ。「じゃあ、どこいきたい?」というと「伊勢神宮と白川郷だ」いう。「茅葺きを見たい」というんだ。

我々のところにも茅葺きはあったけど、今はもうない。だから見たいという。彼らも、茅葺きは普遍的な物で、自分たちの文化だとは言わない。日本はそれをきちんと残している。そこに感動し、尊敬するというんですよ。日本人が大事に残し、今に伝えていることを尊敬する。京都.奈良は尊敬できない。だから、京都、奈良は入門なんですよ。最後は茅葺に行きつくと思うんですよ。

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白川郷

茅葺き地区は究極の観光地 

観光の最後の最高の局面は茅葺き。伊勢神宮、白川郷だけでなく、山里の茅葺のある風景、人類のふるさと、なんだよね。

草原と森の境、いわゆる里山の世界。どんな世界でも人間は里山から進化していった。だから観光資源としても、茅葺をなくすことは大きな損失で、その経済損失はとても大きい。観光立国を目指すなら、茅葺を残すことは、大きな価値を生む。

アートも同じですよね、ものすごく多面的な価値を持つ。一面からしか見なければ、生産性のないごくつぶしかもしれないけれど、見方を変えれば計り知れない経済価値を持つともいえる。

東京オリンピックの選手村に茅葺きで

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RN そんな先生の計画を進める上でのタイムスケジュールは?いつまでに何を?''
(※即、帰ってきた答えが)

東京オリンピック!!
皆さんを茅葺きでお迎えしたいですね。クールジャパンなんて寒々しい言葉が有るけど、それくらいの大胆な提言をして、それで茅葺きが復活したら、オリンピックやってよかったね、となるかもしれない。
つまり東京だけで盛り上がったってしょうがないでしょ。だからあまり、賛同も得られないでしょ、震災復興はどうするんだ、ほったらかしじゃないか、ということにもなる。

茅葺きということを考えたら、東北は素晴らしい茅葺き文化の資産があるし、温泉と合わせて、東北復興。茅葺き復興で大きな観光資源のストックができますよ。東北はオリンピックの後、茅葺きの観光資産で食っていける。東京だけでなく半分は地方に投資する。地方の象徴は何か、それは茅葺きなんだ。茅葺きは茅だけでなく波及効果がありますよ。茅を苅るということは、里山の背景をきれいに整えてくれる、牛、馬を飼うことにつながるから風景が変わる。茅葺きの循環を取り戻そう、というのは伊勢神宮の教えなんだから、20年に一度葺き替えるということを東京オリンピックを機にはじめましょう。

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白川郷

観光の最大の価値は「尊敬」。尊敬できるから見に行く

屋根を見るだけでなく、葺き替えを見せること自体が、魅力的なパフォーマンスであり、イベントなんだよ。それを見せてあげましょう。 日本人が100人屋根に上がって葺いている姿を見せてあげましょう。絵になる。団結の素晴らしさは賞賛されますよ。尊敬ですよ、観光の最大の価値は尊敬なんだよね。

これは自分たちにはできないことだ、素晴らしいことだ、と思ってもらえる。だから、見に来てくれるんですよ。茅葺きにはその力があるんですよ。

屋根の造形だけじゃなくて、それを葺く姿にも価値がある。人を感動させる。

今でも白川郷での屋根の葺き替えは、大変な驚きを与えていますよ。オリンピックの時にそんな光景があちこちで見られたら、外国人は大喜びますよ。オリンピックの競技を見るよりも楽しいかもしれない。茅葺きの競技をやってもいいかもしれない。共同作業の葺き替えも見た人は、素晴らしい景色を見て、こんな日本人だから震災を乗り越えたんだ。と尊敬されますよ。サッカーは弱いかもしれないけど(笑い)いいじゃない弱くても。「尊敬」それが平和への一番大事な心です。
そんな提言したいですね。やりたいね。とりあえずは選手村を茅葺きで作ってほしいね。1か月間だから仮設で行ける。万博施設と同じ、だから今の法律下で可能です。

茅葺きの食堂なんかもいいね。

そこで葺き替えやれば素晴らしいレセプションになる。それを中野や塩沢や相良達にやってもらいたい。今、アラブの王様やシンガポール、香港の富豪の別荘の屋根葺きで彼らに声がかかっている。そんなこんな可能性が今の茅葺きアーティストたちには見えてる。彼らのジャンプ力はすごい。一般の人たちが考えている茅葺と違ってる。イマジネーションのジャンプ力が違うんだ。

RN だから彼らは元気なんですね!

※ ※ ※

2014年8月19日インタビュー・茨城県・北条にて。

※このインタビューは1年少し前、オリンピック施設をめぐるドタバタの気配は全くなかった。韓国、中国との緊迫感もなかった。安藤先生の提案は新鮮だった。現時点でこのインタビューを、見返すと、安藤先生はまるで、13か月後の情勢を予見していたように思えた。そのことを安藤先生に言うと「私は10年も前から同じことを言ってるよ。世の中が動いているだけだ」とかわされた。

世界を喜ばせる東京オリンピックの茅葺き施設、安藤案を是非とも実現させたいものだ。

2015/10/27(火) 09:00:00|茅葺き文化|

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