2015年10月27日 号(№267)
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安藤邦廣氏に聞く(2)
筑波大学 安藤邦廣名誉教授に聞く(2)
「皆が何に取り組み、どこに生産の重点を置いていたか」それが屋根に現れている。
芸州茅葺き屋根。
RN この時代が茅葺きのピークだったというのは、驚きました。すると戦後の復興期の前の時代はどうだったのでしょう?
普通皆さんのイメージにある伝統的な茅葺きだよね。江戸時代の安定した社会の中で、やっぱり茅ですよ。ムギ、イネではなくてね。村には茅場があり、牛馬を飼って、養蚕をやって、それぞれ、地域的な副業特産物を作って、生活の営みがあった。
今茅葺き屋根が残っている地域を調べてみると、一番多いのは都市の周辺。四国、九州はほとんどない。ということは、戦後の復興期に茅葺が増えて、たくさん作られた地域は、中には立派な茅葺きを作ったところもある。そのいくつかが残っている。
都市との経済関係、経済的な背景。その時代に経済的に潤って、立派な家を作って立派な茅葺き屋根を葺いたところがある。その後、屋根は、もちろん家は愛着を持たれ大事にされた。その景観は地域の宝と、とらえられるようになった。
それから戦後の復興が一段落して、遊休農地が増え、茅が増えてきた。増えてきたのなら今度は藁ではなく、本来の「茅でやればいい」。ヨシ、葦についても琵琶湖や霞ケ浦でも刈らなくなった。昔はヨシなんて高級品。京都ではヨシなんて最高の値段なんだから、とても屋根なんか葺けなかった。でも今は腐るほどあるから、葦で葺いている。いつの時代も一番安く大量にあるもので葺くんですよ。
今、建物の屋根に鉄が多いのは、鉄が安いから。だから鉄で葺いているだけなんだ。日本の中で、もっと安価で大量に安定して供給できるもので屋根を葺くんだ。それが民家の屋根なんだ。
ある時代に、みんなが何に取り組み、どこに生産の重点を置いていたか、ということが屋根に現れている。
戦後はコメだけじゃ間に合わないというので、日本中で、できるところは二毛作をやった。
広島の茅葺きフォーラム会場。一般参加が多いのもフォーラムの特徴だ。
茅葺きは農業の象徴。
日本の食糧生産のピークは戦後、30年代ですよ。農業が最も盛んだった時が、茅葺屋根のピークだった。立証はできないけどね。
それから時代が進む。
この後は工業の時代、都市化の時代です。職人たちはみんな転職した、茅葺職人をやめて、工場労働者になったわけだ。集団就職で、出稼ぎで、みんな東京や大阪に出た。話を聞くと、高度成長の時代、彼らは茅葺をやめて都会へ出て、工場や建設現場で働くわけだ。おもに建設現場で、とびや足場の施工に携わった。
戦後10年ほど屋根屋をやって、高度成長期に都市へ出て、30年ほど働き、定年になって故郷に戻って、屋根屋を始めた。そんな人が多かった。
戦後10年ほど、食糧増産の大号令が発せられ、その一瞬屋根屋は急増し、そして途絶えた。
食料は輸入すればいいという政策に転換し、農業人口は減少、茅葺屋根の需要は減る。職人は転職、後継者はいない。こんな産業には未来がない、街に出てサラリーマンになるか、工場で働くか、ビルを作るかだ。「茅葺き職人の後継者ゼロ」がずっと続いた。
それが1980年代の様子。私が研究を始めたころの話だ。本当に後継者はゼロだった。その時のわずかな高齢の職人が辞めたら、誰もいない。
相良さん(左)、中野さん(右)
そんな時に、出てきたのが、中野君と、西尾君たちだった。2人とも大学卒、美山で職人に弟子入りした。1990年のことで、当時25歳。今45歳だな。残っていた親方たちは60代。もうすぐ引退、いいところあと10年。最大でも20年、彼らが死んだら茅葺はおしまい、農村の茅葺き屋根はおしまい。というところだった。後継者なし、茅葺職人ゼロ、せいぜい京都の茶室の茅葺きをやる職人がいるくらいだ。
で僕は出かけて行って彼ら、2人に聞いた。「何で茅葺きやるんだ?」って。彼らは思いを語った。それから、あの2人とは長い付き合いになった。僕たちは仲間です。
最近の職人たちは、皆彼ら(中野、西尾)の弟子です。それから二人と言いましたが石巻の熊谷秋雄君も加えなければ。彼もおもしろい男で、年齢は中野君達より少し上、50歳くらい。彼の実家の稼業がヨシやさん。北上川河口の最大のヨシやさんだった。海外青年協力隊でフィリピンに行っていた。畜産を勉強、農業支援、フィリピンで活動し、ルソン島で茅葺に出会ってるんだね。いろいろ世界をみて、家業を継ぎたいと戻ってきたようだ。ヨシとヨシ葺きに自分の未来がある、と思ったんだろう。
この3人が日本の茅葺きを支えている。彼らの視野は広い。熊谷君は畜産を学ぶ中で、茅の植物資源としての価値が見えたんじゃないかな。日本、アジアの国々は、その植物資源に根差した文化だ、それがどんな形に生まれ変わるか。そこで彼は弟子をたくさん育て始めた。西尾や中野が付いた師匠が鶴岡建設で、ここに中野、西尾の他に若い連中が集まり始め、尾坂なんかも行った。
京都美山茅葺きの中野軍団
中国地方の茅葺きの特徴を語らう。
今の茅葺き技術を言ってみれば「東の熊谷産業、西の鶴岡建設」
基は同じ、絶滅しかけた種が、そこから拡がった。根が同じでみな兄弟みたいなもんで、仲がいいのはあたり前だ。兄弟だから喧嘩もするが、基本的には仲間だ。
RN ものすごい熱気というか、エネルギーを感じたのはそれだったのですね、
茅葺き職は極めてマイナーですよ。自分たちはマイナーだから、少数民族だから、という意識がある。マイナーであればあるほど、結束は固い。周りは敵なんだから、協力しないと生きて行けないでしょ。板金、瓦、もちろんコンクリート建築は敵。今ある都会のハウスメーカーなんか全部敵だったわけだ。そのなかで生き残っていかなきゃならないんだから、内輪で喧嘩してる暇はないでしょ。
中野も爺さんが茅葺職人だったんだ。彼は若ころから音楽で放浪し、ある時、思うところあって、母親の猛烈な反対を押し切って…。そして戻った。繊細な男です。
茅葺きという仕事が、滅びる寸前に中野・西尾・熊谷という3本の芽が出た。それぞれが弟子を育て、それが30人になり、100人近くにまでなってきた。みんなおじいちゃんが、同じ、みたいなもんで、大家族ですよ。分家みたいなもんで、元をただせばそこへ行きつく。今中野、西尾、熊谷が育てた新世代の弟子たち、2代目が活躍を始めた、今はそんな時期だ。
だから彼らの茅葺は今までの茅葺とは全然違う、時代背景も違うしね。農家の茅葺きじゃないんだ。 農家の経済力を背景に花開いた茅葺とは違う。違った価値観で茅葺をとらえて、模索してるんだ。 僕だってそれが何かわからない。
RN ノスタルジーじゃなく、単なる保存じゃない。最新の建築素材と競争できる素材ととらえている、その考えが新鮮でした。
だから彼らは海外によく行く、フランスはどうだ?イギリスは? 一番茅葺きの多い南アフリカは「どうなってるんだ?」と見に行くわけだ。武者修行に行くんだ。向こうも元気のいい若いのが来たら歓迎するよね。「見どころがある、よし」、といっていろいろ教える。
向こうでは茅葺は最高の贅沢ですよ。評価も高い、「こりゃ日本でも行けるかもしれない」と思う。
そのままじゃないけど、「日本とは違う世界がある」ことを知るのは、とっても大事だよね。で、自信持って帰ってくる。「もしかしたら俺たちは新しいヒーローになれるかもしれない。」と感じてくるんですよ。
彼らは、何らかの挫折を経て、今の仕事についている人が多い。いろんなことをへて誰もやらなかった茅葺きなんていう世界に行きつく。
研究者という人種は迷いがあって、さまよっている。自分の中にも迷いがあって、あるいは真っ直ぐ歩くことができない人間なんだから。だからいろいろ調べて、道草を食うわけじゃない?道草食ってんだよ。そういう人が何か新しいものを見つけるんだよ。世の中で働きの悪いやつなんだ(笑)。研究者なんてのはね。
このあいだ面白い話を聞いた。
蟻は100匹いると、そのうちの20匹は必ず怠けてるんだって。何もしないで、待ってるだけ。「こいつら何もしない」からといってその20匹を排除する。すると100匹に増えた時、また20匹は怠けるんだって。これは集団の問題。外的にやられた時や、病気が発生した時に備えて、種、集団の維持のための必要な存在なんだそうだ。
研究者てのはこれだよ。怠け蟻(笑)。現在は稼がないけど、未来のために備えてるんだ。今の社会では小泉政権以来、競争社会の中で、稼ぎのない連中は排除されてきたわけじゃないですか。20%を排除した結果、あらゆる部分で、軋みが出てきている。あらゆるところに競争原理をもちこんだから、スタップ細胞まで出てきた。本来怠けるべき奴を無理に働かしたら社会は死ぬんだよ。
RN 中野さんの弟子たちみてると、ここにいなかったら暴走してるんだろうなあ、という感じが漂ってますね。
ヤンキーだよ。エネルギーが余ってるよ。エネルギーは余ってる、だけど何か社会にそぐわない、疎外感を持ってさまよっている人たちですよ。これはどんな社会にも必要な人たちなんですよ。新しいことが始まるための予備軍なんだ。
RN 彼らにとって「ひょっとしたらおれたちはヒーローになれるかもしれない」という予感は大きいでしょうね。
若い人たちだから野心はある、未来がないことは絶対やらない。でも先は見えないけど「これはおれしかできないことかもしれないが、俺ならできる」、「これならトップに立てる」、そう思えれば。賭けるでしょ、男なら。博打みたいなもんだけどね。確率の低い。(笑い)
RN 仕事というのはカッコ良くないといけないと思うんですよ。彼女に、息子にかみさんに「カッコいい」と思われたい。
「金じゃないですよ。男なんて、名誉欲だけで生きてるんだから。(笑)」金は後からついてくるんだ。
2015/10/14(水) 00:09:15|茅葺き文化|
「BOUSUIデジタルアーカイブ」防水歴史図書館
我が国の防水の歴史を考察する上でどうしても欠かすことのできない文献が何冊かあります。
防水歴史図書館(BOUSUIデジタルアーカイブ)では、そんな文献を1冊ずつ選び、本が書かれた当時の様子、おもな内容、その本のどこが「すごい」のか、現在生きる人たちにとって、どんな価値があるのか、それぞれの資料を担当するキュレーターが、時には執筆関係者への取材を交えて、分かりやすく解説します。
- 主な収録項目
特集ページ
- 資料第壱号「アスファルト及びその應用」
- 燃土燃水献上図を探ねて
- 「聖書と防水」3部作
- 「日本書紀と瀝青」
- 日本初のRC橋と琵琶湖疏水
- 『選択』に連載中の紺野大介 清華大招聘教授とルーフネット
- 「お初」の上七軒だより
- 日本橋改修工事
- 武生余話
- 今でも「燃える土」は見ることができる
- 「日本最初のアスファルト舗装の話」
- 板金いま、むかし -鴨下松五郎氏に聞く-
- 「塗材からみたコンクリート」
- 防水の博士たち
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