「今の防水業界がこれでいいのか」「いい仕事をすること、社会的貢献をすることと、防水工事で利益をあげることは両立すべきだ」と考えるあなたに!

2013年2月18日 号(№134)

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2013年 如月月きさらぎ 平成25年、昭和88年、大正102年、明治146年

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気軽に世田谷で軒葺き体験

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でも望めば濃い茅葺き情報も得られます
1月27日(日)東京都世田谷区喜多見5-27-14の世田谷区次大夫堀(じだゆうぼり)公園民家園で、茅葺き体験教室 が行われた。>>つづきを読む

リニューアル技術開発協会新年情報交換会

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東京駅ドーム天井への防鳥ネットなども報告
NPO法人リニューアル技術開発協会(望月重美会長)は1月28日東京都江東区の古石場文化センターで、新春情報交換会を開催した。>>つづきを読む

KRK新年会

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新年講演は輿石教授
シート防水を製造するメーカー団体である合成高分子ルーフィング工業会(略称KRK)は1月25日、東京・四谷のスクワール麹町で新春講演会と賀詞交歓会を開催した。>>つづきを読む

絵日記

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ササ刃やマトモで、道路に並べた長モノを切る

「銅板屋根とともに」好評連載、第2回目です。

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日銀大阪支店の美しいドームと銅瓦。(写真は記事と直接関係はありません)

※ ※ ※

どんな仕事にも専門用語や隠語はあるものですが、建築、中でも屋根については部位や、構造、作業にかかわる符丁は多いです。斉木さんの話、今回は鋏に触れています。「ササバ」はともかく「まとも」といういい方には少し驚きました。

鋏にこだわるのは何と言っても美容士でしょうが、彼らが使うのは一丁十万、二十万円というのは珍しくないらしい。刃のカーブによって、ササ刃、ヤナギ刃を、乾いた髪、濡れた髪で使い分けます。髪が切られまいと刃の上を逃げて行き、それを適切な速度で追いかけて切る。髪を傷めずに切るのは道具と腕だそうです。

板金鋏は、堅い金属を相手にしながらも、繊細な作業が要求され、鋏の種類はとても多く、日本金属屋根協会のホームページにも㈱盛光の田村和義社長による特集記事「点で切る」~鋏を学ぶ」で詳しい解説があります。

さまざまな板材を、複雑な曲線で切り出し、えぐり取る板金鋏。長物の切断時に使われる直刃 (チョクバ) 直線切り専用の鋏を「まとも」と呼ぶのはちょっと笑えますね。

銅板屋根とともに(上) その②

入社試験は煙突

小野に来たのが昭和30 年。調布の板金屋さんを飛び出して、(台東区)鳥越の叔母の所でフラフラしていたら、新潟の地元紙である新潟日報に出た小野板金の求人広告を田舎から送ってもらったのがきっかけです。 面接したのが亡くなられた菊谷専務。専務に「長男だから冬働きしかできない」と言ったら、「冬はどこでも仕事がない。暇なのは新潟だけじゃない」ということで、12 月だけ働かしてもらうという条件で入りました。最初に煙突を作らされました… 今思うと入社試験です。当時のうちの会社の煙突は、板をただ切って曲りや主目は鋲でかしめただけのものでした。

私は調布で町場の経験がありましたから、ちゃんと型を出してえぐったり、落とした屑で吊子を作り主目や曲がりは全てはぜ組みをしました。そしたら初代の社長( 以下: 留吉社長) が「お前どこで習ったんだ」と聞かれました。「田舎です」と返答したら、「田舎でこんなことするわけがない」って。分かるんですね( 笑)。その時に「うちは、こんな丁寧な仕事はしなくていいんだぞ」とはっきり言われました。野丁場の仕事は能率だということです。

なるほど周りを見ると町場の感覚からすると、もったいないようなトタン板が屑箱の中にいっばい捨ててある。最初の驚きでしたね。

長尺鉄板を知る

その翌日から仕事、それも徹夜仕事でした。銀座にある三愛ビルの屋根の葺き替えです。私はこの時初めて長尺鉄板というものを知りました。それまでは3×6 の板しか知りませんでした。当時は私どもの市川工場もありませんでしたから、長尺の加工はここ(本社)の前の道路に広げてやっていました。道路に鉄板を並べて墨をうって、薄物用穂長ササ刃… 直刃の長いもの…で切っていく、といった作業です。ササ刃で切れるのは30 番(0.3mm ) までで、28 番(0.4mm) になると切れない。ササ刃と“ まとも” の中間の鋏があって、それで切っていたと思います。

小野エ業所本社前の路上での成型作業

入社したときの日当が私の場合420 円、“世話役”は470 円でした。1 ヵ月後に10 円上げてもらいました。当時の10 円は大変な金額でした。職人さんは5 円の違いで行き先を変えるような時代でしたからね。この頃の小野は社長を含めて社員が7 名、職人さんが27 人ぐらい、外注には知らない人がたくさんいました(笑)。

この時は12 月一杯という約束でしたが、結局3 月まで仕事をして4 月に新潟に帰りました。その秋にまた上京して仕事をさせてもらいました。その2 ヵ月後くらいに“世話役”をやれと言われた。若いのに700 ㎡もあった屋根工事の“世話役”になったもんだから、うちの古い連中からは「あいつは、なんだ」となりました(笑)。

会社も職人を使うと「うるさくて、しょうがないだろう」(笑)と分かっていたのか、見習い生をつけてくれました。当時はうちには見習い生として1 年生が5 人、2 年生が3 人、3年生が2 人ぐらいいました。

その見習い生を使って仕事をしました。彼らは良く働くんですよ。ちょっとした仕事を教えても、とても喜んでくれましたしね。

人様には言えない

この仕事で請負金額の半分ぐらい儲かった… そんなこともあってか、小野での仕事が面自くなって、結局田舎には帰らなくなりました。当時の小野は国鉄の仕事を結構やっていましたから、連日徹夜仕事なんて日々も多かったですね。

若い頃は、人様には言えないような経験もしました。ある現場のことですが、番頭さんが屋根の寸法を間違えてしまった。屋根に載せてみたら30cm 短い。監督さんは「すぐ取り替えろ」と言うし、菊谷専務に電話したら「お前の裁量で何とかしろ」と言う。無茶苦茶ですよ(笑)。三晃(金属工業)さんなどは当時でも機械で加工していましたが、うちは手折りでしたから、そもそも簡単には材料は手当てできません。

「何とかしろ」と言った専務も現場まで来て大工の棟梁と相談を始めた…で、軒先を20cm 詰めちゃった(笑)。大工さんに軒先を切り落としてもらって棟板を大きくして、夜中に屋根を葺いてしまった。翌朝、監督が来て「どうしたんだ?」と聞くから、「いや一、取り替えて葺きました」(笑)。監督も分かっていたと思いますよ。

銅板屋根は大震災以降

銅屋根の歴史は長いようでも、いろいろな建物に使われるようになったのは、それほど古いことではありません。大正時代まではほとんど一般では使われていません。せいぜいお金持ちの家や官公庁ぐらいですね。一般に普及したのは関東で言えば、大震災以降です。

大正末から昭和の初めにかけて銅板の仕事が急速に広まった。このため、銅金さん、浅草にあった銅助さん、留吉社長の銅辰といった銅を看板とした業者が出てきたように思います。ただ、この頃は、大物にはほとんど使われていなくて、戸袋やパラペットに化粧で張る仕事… 後に看板建築と言われる様式… ですから、はぜが細かかった。この流れで屋根葺いたから、はぜが細くてあとで色々と問題が出たということでしょうね。

銅板は昭和8 年から統制品になって一般には使えなくなりましたから、戦前の銅の時代は非常に短期間であったと思います。この統制は昭和24 年まで続きました。ですから昭和8 年から24 年の間は、銅の仕事はほとんどありません。それ以降もポツポツといった時代が続き、小野でも私が入社した昭和30 年頃は年に一つ、二つという状態でした。

私も職人として経験した銅屋根の仕事は、箱根にあったある会社の寮、某新聞社の社長さんの自宅、渋谷東宝の屋根ぐらいですね。渋谷東宝の屋根では、銅板の長尺を初めて使いました。0.3mmでした。当時は加工する機械もありませんでしたから、屋根の上に銅板を並べて26 番の亜鉛鉄板で“手バッタ”のようなものを作り、折っていきました。私は銅屋根についてけっこう生意気なことを言っていますが、自分で叩いた経験というのは、この程度です。

  • 斉木益栄氏、主な担当経歴

    銅板屋根とともに①_ページ_4m
    (画像をクリックすると拡大します。)

日本金属屋根協会機関誌「施工と管理」より転載

(つづく)

2013/02/10(日) 00:44:24|屋根|


「BOUSUIデジタルアーカイブ」防水歴史図書館

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我が国の防水の歴史を考察する上でどうしても欠かすことのできない文献が何冊かあります。
防水歴史図書館(BOUSUIデジタルアーカイブ)では、そんな文献を1冊ずつ選び、本が書かれた当時の様子、おもな内容、その本のどこが「すごい」のか、現在生きる人たちにとって、どんな価値があるのか、それぞれの資料を担当するキュレーターが、時には執筆関係者への取材を交えて、分かりやすく解説します。

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