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2011年12月10日号(№75)

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2011年 師走しわす 平成23年、昭和86年、大正100年、明治144年

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2011年の住宅リフォーム市場規模は、5.2~5.6兆円

長径18ミリの小さな紅葉-2

「2011年の住宅リフォーム市場規模」は、5.2~5.6兆円。矢野経済研究所が予測
矢野経済研究所が、2011年第2四半期(4~6月)の住宅リフォーム市場調査を行い、その規模は1兆4,626億円、前年同期比で12.3%減。2011年上半期(1~6月)の市場規模は2兆5,143億円、前年同期比で12.6%減と発表した。
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あきる野市指定有形文化財

①あきる野市旧市倉家-2

旧市倉家住宅 あきる野市指定有形文化財
移築再建後、約10年。まだ雨漏りはない。茅のメンテのために毎日囲炉裏に火が入る。
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足利学校方丈と穴原商会

足利学校①-2

足利学校は、室町時代に、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが「坂東のアカデミア」として、ヨーロッパへと伝えたとされる日本最古の学校です。
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茅葺き屋根の漏水と「ふるやのむり」

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ふるやのむり
茅葺き屋根の雨仕舞を語る時、この話「ふるやのむり」は絶対外せないだろう。「ふるや」=古屋の 「むり」=漏り である。
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絵日記

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燃土燃水献上図を探ねて その3

燃土燃水献上図はいつ画かれたのか?

吉澤記念美術館

この疑問に対する答は日本石油(現:JX日鉱日石エネルギー)が、これまでに作った30年史、同縮刷版、50年史、70年史、100年史、以上5冊の記念誌の中には見当たらない。
ヒントは2つある。

ヒント1
石油会社ではなく防水工事でアスファルトとかかわる建築業界関係資料の中で、この画の初見は、昭和59年9月1日である。防水メーカー・日新工業が創立40周年記念誌として発行した「アスファルトルーフィングのルーツを探ねて」の扉の白黒写真である。

ルーツを探ねて②

画の解説にはこう書かれている。
日本書紀の天智天皇の部に「越国燃土と燃水とを献る」と記されている。当時すでに新潟地方から朝廷に燃土(土瀝青)や燃水(石油)を献上したことを述べている。この故事にならって、日本石油㈱の30周年記念に制作した画である。燃土と燃水とを大きな箱や瓶に入れて都に運ぶさまを描く小暮鞆音(注:原文通り。小堀鞆音の誤り。)の作。「新潟県三島郡出雲崎町にある、石油記念館の資料から複写」。

可能性1.日本石油創立30周年記念として画かれた。

日石の創立30周年記念式典は大正6年5月5日、両国国技館で、盛大な記念式典。第1次世界大戦特需で、その豪華さにおいて、民間の式典としては未曽有の盛事と称された。ところが、式典の記録に小堀鞆音の記録はない。

ヒント2
もうひとつのヒントは、東京芸術大学が所蔵する下画(「天智帝朝越国燃土燃水/下図 71.2×99.3)の裏面に記された、「大正3年博覧会出品画」の文字である。博覧会としか書かれていないが、これは東京大正博覧会のことであろう。

東京大正博覧会会場(美術館)
東京大正博覧会会場(美術館)

可能性2. 大正東京博覧会出展品のために画かれた。

大正東京博覧会は大正3年3月20日より7月31日まで、上野公園一帯を会場にした大イベントで、日本中が盛り上がった。日石はここでも、他を圧倒する規模の展示を行った。
ところが東京府の公式ガイドブックの博覧会美術館の出品目録には小堀鞆音の名はない。美術館ではなく、日石の展示館内での展示と言う可能性があるが、日石側の博覧会展示物一覧にも小堀鞆音の名はない。

天智帝朝越国燃土燃水 下図
東京芸術大学所蔵。小堀鞆音(こぼりともと1864-1931)「天智帝朝越国燃土燃水/下図」71.2×99.3。裏面に「大正三年博覧会出品画」と記されている。

「東京芸術大学百年史」第2巻の大正3年の章に「東京大正博覧会」に関する以下の記載がある。

東京大正博覧会大正三年三月二十日より同年七月三十一日まで上野公園を中心会場として東京府主催の東京大正博覧会が開催され、本工教官の中にも美術部の審査に加わった人が多かった。
(編集部注:高村光雲教授、黒田清輝教授らと並んで小堀鞆音教授ら17名が審査官を嘱託された)
この博覧会は上野公園と不忍池畔にセセッション式や東洋式の展示館が数多く建てられ、東京府を始め北海道庁、二府四十二県、各省官立諸学校、研究所、試験所、台湾朝鮮両総督府、関東庁、樺太庁、諸外国が出品するという大規模なもので有ったが、美術の部門はあまり振るわず、日本画で平福百穂の「鴨」(六曲半双)が、西洋画で新帰朝者太田喜二郎の「赤い日傘」、彫刻で同じく新帰朝者水谷鉄也の「スペインの踊り子」などが注目されただけであった。本校としては教育学芸館に校名額一、敷地建物平面図一、校舎および各教室写真十一を出陳した。

小堀鞆音が「燃土燃水献上図」の下図を出品するはずはないから、完成した「燃土燃水献上図」を出品したはずだ。すると出品したが賞も受けず、注目もされなかったのだろうか。
小堀は審査員であるから、賞の対象からは除外するので有ろうか? 
それとも出品するつもりで下図までは画いたが、何らかの理由で出品しなかったのか? 
もうひとつ考えられるのは、この博覧会には日本石油が全社を挙げて展示に注力した。「燃土燃水献上図」は日本石油の展示コーナーに出品されたのか?しかし日本石油が創立70周年で作った記念史の「東京大正博覧会出品一覧」の中に、この画の名はまだ見つけられない。

可能性3.「日本石油史」の口絵の原画として画かれた。

「日本石油史」は日本石油が単なる社史ではなく、文字通り「日本の石油史」を書き記すという志のもとに製作したものである。ところがこの本は当初、大正3年3月20日から7月31日の会期間で行われた大正東京博覧会に合わせて発行予定が進んでいたはずであるが、発行できなかった。できなかった理由は同書の前書きに書かれている。
本来大正元年までの分で記念誌は編集を終え、大正3年春に印刷に回ったのだが、石油業界の様子はその後激変、さらに5月には秋田県においてかつてない大噴油があり、記事を追加せざるを得なくなったからであろう。
編集の進行具合から考えて、画は大正東京博覧会の開期前には完成していたはずだ。したがって博覧会の美術館ないし日本石油のブースに展示することはできたはずである。東京府の公式記録にも、日石の展示記録にも記載がないことから、おそらく展示されなかったと思われる。
結局初めてこの画が現れるのは「日本石油史」の口絵としてである。

「日本石油史」

小堀鞆音「燃土燃水献上図」の初見は、日本石油が大正3年8月25日に発行した「日本石油史」。

木版多色刷り
原画をもとに木版多色刷りしたもの。

この目次後に見開きカラー図版があり、「天智天皇の御宇燃水燃土を越の国より献上の図」。同書凡例の末尾に「本書の装丁は小川千甕氏、燃ゆる水、燃ゆる土献上の図は小堀鞆音氏の筆に成りたるものなり」と記されている。

するとやはり小堀鞆音画伯による「燃土燃水献上図」は大正3年に画かれたが、大正東京博覧会に合わせて発行を計画された「日本石油史」の口絵のために製作された(或いは口絵に用いることも想定して)ものであって、大正東京博覧会での展示を目的としたものではなかった、ということになる。

※ ※ ※

展示①

展示②

展示③

佐野市立吉澤記念美術館では「日本石油史」も合わせて展示された。

2011/12/01(木) 23:59:34|「日本書紀と瀝青」|


「BOUSUIデジタルアーカイブ」防水歴史図書館

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