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防水の起源に関わる日本書紀の一節を描いた歴史画

防水の起源に関わる日本書紀の一節を描いた歴史画

「燃土燃水献上図」のミステリー

舞楽面

小堀鞆音の画をもとに再現した燃水祭で奉納された舞樂

誰が何のために発注したか

舗装工事や防水工事でアスファルトとかかわる建築業界関係資料の中で、この画の初見は、昭和59年9月1日、防水メーカー・日新工業が創立40周年記念誌として発行した「アスファルトルーフィングのルーツを探ねて」の扉の白黒写真である。

ルーツ

画の解説にはこう書かれている。

日本書紀の天智天皇の部に「越国燃土と燃水とを献る」と記されている。当時すでに新潟地方から朝廷に燃土(土瀝青)や燃水(石油)を献上したことを述べている。この故事にならって、日本石油㈱の30周年記念に制作した画である。燃土と燃水とを大きな箱や瓶に入れて都に運ぶさまを描く小暮鞆音(注:原文通り。小堀鞆音の誤り。)の作。「新潟県三島郡出雲崎町にある、石油記念館の資料から複写」。

上の解説で言う「複写」が…

  • 画だけなのか、
  • 右上の日本書紀の文字「越国献燃土興燃水」も含むのか、
  • 解説文でいう「日本石油30周年記念に製作した画である」という画かれた経緯まで含むのかは、

    重要だ。

それは小堀鞆音の燃土燃水献上図がなぜ画かれたか、を明らかにする記録がないためである。

燃土燃水献上図下画

現在、日本防水の歴史研究会が調べた範囲で、小堀鞆音「燃土燃水献上図」がかけれた経緯を示す記録は、上の「アスファルトルーフィングのルーツを探ずねて」の画の説明。もうひとつが、東京芸術大学が所蔵する下画(「天智帝朝越国燃土燃水/下図 71.2×99.3)の裏面に記された、

「大正3年博覧会出品画」

の文字である。

可能性1. 日本石油創立30周年記念として画かれた。

日石の創立30周年記念式典は大正6年5月5日、両国国技館で、盛大な記念式典。第1次世界大戦特需で、その豪華さにおいて、民間の式典としては未曽有の盛事と称された。

ところが、式典の記録に小堀鞆音の記録はない。

可能性2. 大正東京博覧会出展品のために画かれた。

大正3年3月20日より7月31日まで、上野公園一帯で、日本中が盛り上がった。日石はここでも、他を圧倒する規模の展示を行った。

ところが美術館の出品目録には小堀鞆音の名はない。美術館ではなく、日石の展示館内での展示と言う可能性があるが、日石側の展示物一覧にも小堀鞆音の名はない。

可能性3. 「日本石油史」の挿絵の原画として発注された。

日本石油史は日本石油が単なる社史ではなく、文字通り「日本の石油史」を書き記すという志のもとに製作された。ところがこの本は当初、大正東京博覧会に合わせて発行予定が進んでいたはずであるが、以下の理由で、間に合わなかった。

小堀鞆音「燃土燃水献上図」の初見は、日本石油が大正3年8月25日に発行した「日本石油史」。

小堀鞆音カラー図版

この目次後に見開きカラー図版があり、「天智天皇の御宇燃水燃土を越の国より献上の図」。同書凡例の末尾に

「本書の装丁は小川千甕氏、燃ゆる水、燃ゆる土献上の図は小堀鞆音氏の筆に成りたるものなり」

と記されている。

ただしこの画は原画と同じではない。背景の地は飛ばしているし、銘のバランス、人物の衣装の模様が違う。摸写か、大正3年当時のカラー印刷の過程での見落としか、当初から、挿絵のつもりで発注したのか。小堀鞆音の色調とタッチは当時のカラー印刷技術では再現できないと判断し、この形にしたのか。わからない。
最初の白黒版の燃土燃水献上図は明らかに、この大正3年版「日本石油史」のカラー図版の複写である。

この本を日石は3月の大正博覧会に合わせて発刊したかったはずだ。できなかった理由は前書きに書かれている。

本来大正元年までの分で記念誌は編集を終え、大正3年春に印刷に回ったのだが、業界の様子はその後激変、さらに5月にはかつてない大噴油があり、記事を追加せざるを得なくなったからであろう。

次は同じく日石が大正6年5月1日に発行した日本石油史縮刷版のカラー図版。

縮刷版小堀鞆音

その縮刷版の本文中、唯一のカラー図版は、小堀鞆音「燃土燃水献上図」。原画の複写でないことは、ある3点から読み取れる。恐らく、この縮刷版のもとになった、大正6年発行「日本石油史」の小堀鞆音図版からの低レベル複写。

また「燃土燃水献上図」に関する記述は、画の下に

「天智天皇の御宇燃水燃土を越の国より献上の図(小堀鞆音氏筆)」

とあるだけで、本文中に一切の説明はない。

同書は大正3年8月25日刊行の「日本石油史」の縮刷版であるが、縮刷に際して、大正3年から5年にかけての出来事、及び6年の特記事項が追加されている。

発行の日付に注目。 大正6年5月5日は、日本石油創立30周年記念式典の日。日本の企業史の中で類を見ないほどの大規模な記念式典が両国国技館で開催された。上記の追加された特記事項とは、今度も又噴油だ。大正6年3月30日の越後噴油史上に新記録を留めた四号井戸の顛末である。その記事を急遽追加して、縮刷版が記念式典で配布されたと考えるのが、自然だろう。

いずれの図版も原図と僅かな違いはあるが、原図がなければ、存在しえないものである。
よって日本防水の歴史研究会は「防水の起源にかかわる日本書紀に著された故事に基づく」小堀鞆音の「燃土燃水献上図」は大正3年に画かれたものと考える。

日本石油はこの後、50周年、70周年。100周年まで記念誌を出す。が、小堀鞆音の画の扱いはその都度軽くなるのはなぜだろう。
戦時中の薄っぺらな50年史で触れられないのはやむをえないとしても、石油史を知り尽くした長 誠次氏が大きく関わった70年史において、小堀鞆音の画が、モノクロ写真で「その他資料」的に扱われているのは、不思議だ。さらに日石渾身の100年史においては全く存在しない。100年史の発行は昭和63年。恐らくこの時点で小堀鞆音の燃土燃水献上図は、すでに人目につかない場所に置かれていたのだろうか?

※ ※ ※

以上が、現時点で、見つけた文献記録の中から推測した日本防水の歴史研究会によるメモです。

※ ※ ※

小堀鞆音

これは新潟県黒川村(現 胎内市の黒川村)郷土伝習館の開館(昭和55年)に際して限定製作された色紙。平成22年11月、日本防水の歴史研究会が胎内市(旧黒川村文化財課からご提供いただいたもの)。

実はこのたび小堀鞆音縁の美術館学芸員の方と、原画を見た。傷の具合などから判断して、この色紙は原画から、丁寧に複写されたものと思われ、かなり忠実に再現していることが、初めてわかった。しかし平成22年末の段階では、これがどの程度原画に忠実かは判断できなかった。

2011/07/17(日) 08:56:05|ARCHIVES|

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