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近代化産業遺産「豊川油田」

近代化産業遺産「豊川油田」

近代化産業遺産「豊川油田」

平成11年11月30日、秋田の豊川油田は経済産業大臣より「近代化産業遺産」に認定された。申請者はNPO[豊川をヨイショする会]の理事長佐々木榮一さんだ。佐々木さんについてはルーフネット80号(2012年1月16日号)をご覧ください。
豊川之写真1枚入る
668年天智天皇即位の年に越の国から燃える土(天然アスファルト)と燃える水(石油)が献上されたという。
日本書紀の記載にされた「献上地はどこか」という明治から続いた論争は、現在新潟の黒川村(現材の胎内市)である、ということで一応の決着を見ている。確かにその当時燃える土と燃える水は黒川村で産出したのだろうが、現在では当時の面影はない。現在でもアスファルト(燃える土)の層が露頭し、燃える水が地面からしみだしてくるのを見ることができるのは、秋田県豊川村(現潟上市)真形尻、鳥巻沢地区などである。
この地の産業史上の価値と地質学上の価値に注目し、豊川油田を近代産業遺産としての認定を勝ち取り、NPO「豊川をヨイショする会」を設立して、産業遺産の施設やアスファルトの露頭地の保存活動を進めているのが佐々木榮一さんだ。

①佐々木さん

佐々木さんはこの認定取得までの経緯と天然アスファルト利用の産業史を2009年に業界の会報誌「天然ガス」に執筆している。その関連部分を今回86号から4回にわたって紹介する。

近代化産業遺産「豊川油田」

<経済産業省による近代化産業遺産の「認定」を受けて>
―その1:天然アスファルトの利用の産業史―

佐々木 榮一
エスケイエンジニアリング(株)地質部長
NPO「豊川をヨイショする会」理事長

2.近代化産業遺産の申請から認定まで

筆者は平成19年5月上旬、経済産業省のHP(ホームページ)で近代化産業遺産の認定に係る公募をしている事を知った。そこで「豊川油田」の特異な産業の歴史とその産業遺産的な価値が全国的レベルに見てどのように評価されるのかを知る事と、少しでも豊川油田の名を国内に知らしめたい目的で申請に向けて準備をした。時間的に殆んど余裕が無かったので、これまでに出版した資料や平成18年に開催した「豊川油田の歴史と産業・文化遺産」展の資料を基にして、申請文章にその近代化産業遺産の価値を記入し、締切日に近い5月21日に申請をした。

申請から2ヶ月が過ぎた7月下旬に「豊川油田」を含む幾つかの石油産業遺産が認定の候補として取り上げられている事を知った。この頃の経済産業省のHPには7月末として「ストーリー11:わが国の近代石油産業を確立した新潟の石油産業と多様な関連産業遺産群」とタイトルされて、5ヵ所の構成遺産及びストーリー内容の解説文が掲載された。しかし、その文は簡略されたもので、更なる詳細な記述が必要ではないかと感じていたところ、経済産業省のHPで「産業遺産の取りまとめストーリー案に対する意見の募集」が8月10日~8月31日間公募された。

筆者からストーリー案に対して提案した意見は

・明治中頃から後半まで石油開発及び産業の中心は新潟地域であったが、明治末から昭和初期にかけてはその石油産業(原油生産量の増大)の中心が秋田地域に移行した。
・豊川油田の特異性として原油の発見以前は江戸時代後期から天然アスファルト(土(ど)瀝青(れきせい))の産業への利用が行われ、明治10年以降は天然アスファルトの道路舗装や防水加工等の用途の拡大に伴って、本格的な採掘が行われ、特に明治30年以降は会社組織による工業的な採掘が行われた。その天然アスファルト採掘鉱山の歴史についての記述をお願いしたい。

以上二つの意見を応募した。

秋田における石油開発の始まりは明治6年頃から、手掘りや上総掘りで始められた。僅かながらの出油は確認されたものの、油田としての発見は綱式採掘機械が導入された明治35年以降であり、それは日本石油(株)による旭川油田の発見である。そして、明治末から大正初めに豊川油田、黒川油田及び八橋油田の大発見が続き、原油生産量の増大に伴って石油産業が拡大し、新潟県のその生産量規模を上回るようになり、国内の石油産業界に大きく貢献していった。

平成19年11月30日横浜市赤レンガ倉庫の会場において近代化産業遺産の認定証授与式及び近代化産業遺産保存・活用シンポジウムが行われた。そこでは33のストーリーの近代化産業遺産群が正式に発表され、575件が「認定」を受け、「認定書」と「近代化産業遺産プレート」の授与式が行われ、筆者も参加する機会を得た(図-1)。

認定書
図-1 認定証 (※図をクリックすると拡大します。)

石油産業の近代化産業遺産群のストーリー11のタイトルは『新潟など関東甲信越地域で始まった我が国近代化石油産業の歩みを物語る近代化産業遺産群』と命名され、秋田県では「豊川油田」と「院内油田」、新潟県では「金津油田」及び「尼瀬油田」、静岡県の「相良油田」がそれぞれ認定を受けた。筆者にとって今でも理解できないのはタイトルに関東甲信越地域と記述された事である。この地域名から新潟を除くと認定された油田は存在しないからである。もし、地域名を入れるのであれば、「秋田」の名を入れるのが本筋ではないかと今も思っている。

近代化産業遺産「豊川油田」 その2

4500年前から3000年前の先史時代、天然アスファルトは、ひび割れ補修、接着、コーティングに使用された。縄文時代天然アスファルトは縄文時代の貴重品だったのである。アスファルトの付着した土器は全国的に出土している。聖書には防水材としてのアスファルトの用途が明確にかかれている。一方日本ではそのような周知の記録はないが、同様の用途で、広く使用されていたわけだ。今回の佐々木教室で紹介されているアスファルト全面コーティングの土偶は秋田県立博物館出みることができる。

豊川油田綱式一号井跡
豊川油田綱式一号井跡

近代化産業遺産「豊川油田」

3.「豊川油田」の石油産業における近代化産業遺産の特徴

豊川油田は秋田県の中部、八郎潟南部の潟上市に位置する(図-2)。油田の一部は隣接する秋田市にまで広がる。また、東には黒川油田が存在する。

図-2
図-2(図をクリックすると拡大します)

近代化石油産業遺産『豊川油田』の特徴は二つ存在する。その一つは天然アスファルト(当時は土瀝青〈どれきせい〉と呼ばれた)を利用する産業の歴史であり、江戸時代後期から始まる。

他は大正2年中外アスファルト社の綱式掘削機による原油の発見と、油田としての開発生産の歴史である。

本文では豊川油田における天然アスファルト利用の産業史について話を進めて行きたい。

図-3
図-3(図をクリックすると拡大します)

その始めに、産業とは扱えないものの先史時代(主に縄文時代中期~晩期:4500年~3000年前)における天然アスファルトの利用を紹介したい。当時は土器や土偶の割れ目、石器特に石鏃(せきぞく・矢尻り)の接続部分の接着剤等に利用されている。様々なアスファルト付着遺物や天然アスファルト塊等の存在が各地の発掘調査によって明らかであり、天然アスファルトは縄文時代の生活において貴重品として扱われていたらしく、北海道から関東地方まで広く分布している。

図-4
図-4(図をクリックすると拡大します)

現在、天然アスファルト供給の最有力な地域の一つは豊川油田(槻木遺跡)であると考古学会で考えられている。図-3は秋田県や隣接する青森県、岩手県で出土しているアスファルト付着遺物の分布を示す。私が調べた範囲内では秋田県では102ヶ所、石油を産しない岩手県内でも100ヶ所にも達しており、天然アスファルトが広範囲に流通していたことを示すものである。図-4は秋田県内で出土したアスファルト遺物の一例だが、この中には漁網?の錘(おもり)と考えられる石にアスファルトが付着した遺物も存在している。また、秋田県田沢湖畔に位置する縄文時代後期の潟前遺跡では土器に入った重さ4kgの天然アスファルト塊が出土している。豊川油田から運ばれたものだろうか。図-5は潟上市狐森遺跡で出土した縄文時代後期の人面付環状注口土器(国指定重要有形文化財)である。全長が約16cmで、真上から見るとドーナツ状の環状に見え、中は空洞である。土器全体が天然アスファルトで化粧塗りが施され、黒色を呈している。この遺跡は豊川油田から直線で西へ約2kmの距離にある。

縄文時代以降は歴史から天然アスファルト利用の記録は暫く消え、再び現れたのは江戸時代後期になってからである。

図-5
図-5(図をクリックすると拡大します)

近代化産業遺産「豊川油田」 その3

天然アスファルトマニアにして地質の専門家佐々木榮一さんの「天然アスファルト利用の産業史。」今回は3回目です。

天然アスファルトの利用は、日本においても4000年前縄文時代にさかのぼる。しかし
日本において天然アスファルト=土歴青(どれきせい・土油=つちあぶら、と称することもある)がビジネスになったのは1818年(文政元年)。秋田の黒沢利八(1765~1838)は土歴青から油煙墨を作り、生産性向上に務め、1804年には年間3トンの生産量に達した。そして藩に対して、年間十貫文の冥加金と引き替えに事業の独占権を得た。

この生産の様子が放浪画家。蓑虫山人によって画かれている。彼は油煙製造だけでなく、天然アスファルトを防水のため屋根に塗っているところも画いている。

黒川油田(秋田)の現役ポンピングタワー

豊川油田からひと山越えたところに黒川油田(紛らわしいが新潟ではなく秋田の黒川)-があり、ここでは現在でも細々と、昔ながらのポンピングタワーで石油をくみ上げている。

近代化産業遺産「豊川油田」

4.天然アスファルト(土瀝青・どれきせい)採掘と産業の歴史
①油煙(ゆえん)製造の話

天然アスファルト(当時は土油〈つちあぶら〉又は土瀝青〈どれきせい〉と呼ばれた)の産業への利用の歴史は黒澤利八(1765?~1838)の研究から始まった。寛政2年(1790)頃秋田県横手市に住んでいた時に、土油(土瀝青)から灯火用の油を製造し、灯火用に適しない残り物を使って油煙墨を作り、佐竹藩主に献上した。そこで、藩から油煙製法の許可をもらい、秋田市の久保田に移り住んだ。そこでは油煙製法の改良を進めるとともに、秋田領内の土油の湧出地の調査を行っている。1804年頃、槻木村(藩政時代から明治初め頃まで呼称された)の槻木・真形尻の丘陵地(油煙山と呼ばれる)に移り住み、油煙の製造に専念した。油煙墨とは土饅頭状にした土瀝青を小屋の中で火をつけて燻らせて煤(すす)を出させて、その煤を集めてニカワで固めた墨である。油煙すなわち煤は墨以外にも染料や塗料として利用されたといわれる。この頃は1ヵ年で七百貫から八百貫(約3トン)の油煙生産が可能であった。文政元年(1818)になって黒澤利八は年間十貫文の冥加金を藩に収め、独占的に事業を行えるように陳情を行ったところ、藩はそれを認め、同業の不許可を約束し、冥加金の納付を命じている。初代が起こしたこの事業は子の久蔵、更には孫の平八へと引き継がれていく。

図-6
図-6(図をクリックすると拡大します)

図-6は油煙製造の絵図である。黒澤利八の家の周りにある十数件の小屋の屋かで油煙の製造が行われた。この絵図は三代目黒澤利八(平八)によって明治初め頃に描かれたのではないかと推定される。図の左上隅に神社が描かれているが、これは文久三年(1863)黒澤平八が京都神紙白川家の許しを得て伏見稲荷大神を勧請し、正一位油煙山稲荷大明神を称号している神社である。この神社は現在でも真形尻の地に存在し、既に百四十五年の歳月を経ている。

図-7
図-7(図をクリックすると拡大します)

油煙の製造方法について佐々木房生(1975)は「瀝青と舗道」(第五冊:大正11年10月)を引用して「四間四方くらいの小土蔵を築き、高さ十尺とし、その内に油土即ちアスファルト原鉱を饅頭形に盛り、その一方に角形の口を付け、饅頭形の頂部に煙突様のものを突き出して、角形の口より火を点じ、頂部の煙突より盛んに煙を出さしめ、土蔵内部の壁に油煙を付着せしめて、こを採取したりと」と記述し、更に「古老によると、明治中期まで残っていたものには、大きさはおよそ八畳間ぐらい、高さは優に人が立って歩けるのもで、これをムロと呼んでいた。コワリ(手柴)を縄で結って骨組みを作り、これに土壁をつけていく。その厚さは四~五寸(15cm程)もあったろうか。外塗りはていねいに仕上げていたらしい。このムロの中にかわかした焚き株(注:土瀝青)を盛り上げて燃やすわけである。と記述している。図-7は「油煙製造」の想像図である。

図-8
図-8(図をクリックすると拡大します)

更に、油煙の取引の状況について佐々木房生(1975)は「文政八年(1825)中、またまた油煙六貫目入りのもの百個を、大坂廻りで江戸へ出荷した。海上を無事に運んで船が着いたという連絡が来たので、利八とその子久蔵の二人が百日の御暇をもらい、上下とも本馬二疋の御駄賃帳をいただいて出かけた。そしてこの油煙をそれぞれ売りさばき、なお末永く契約したいと思い、江戸の問屋富士田屋藤兵衛と黒屋嘉兵衛の両家に赴き、一ヵ年に二千貫余りの取り決めを行い、両人からそれぞれ約定書を受け取ってきた。」と、また「この油煙の価格であるが、前述の江戸表墨屋と藤田屋両家に納入した分、上中下あわせて六百三十九貫目につき六十四両三分二朱と七匁になっている。単価は十貫目入れ一個について百五匁から八十五匁、そして五十三匁の三段階に分けられていた。取引の範囲は江戸の他、京都や大阪方面、越後、会津、南部、津軽まで広げられていた。」と記述している。

図-9
図-9(図をクリックすると拡大します)

油煙の製造は明治中頃まで続けられた。その様子は一人の画家、蓑虫山人(1836~1900:図-8)によって描かれている。彼は紀行家で放浪画家と言われ、青森そして秋田を旅し、その地域の風俗画を描いている。美術品は考古学に詳しいと言われ、特に明治20年に青森県亀ヶ岡式土偶を「人類学雑誌」に紹介したことは有名である。秋田県には3回(明治11年、20年、及び28年)も訪問し、現在の潟上市昭和大久保にも逗留している。図-9は明治20年頃に描かれた油煙製造の図である。この図は槻木村の隣にある竜毛村での黒澤利八の「土瀝青製造図」と題し、説明には土瀝青を以って油煙を製造する図と書いてある。彼は「土瀝青を塗る図」(後述)も描いている。この図をもとに私の解釈を加えてみたい。労働者が鍬で不純物の混じった土瀝青を周辺の地域から採取して、図の右下にあるような背負子に背負ってこの場所に運んで来た。そこで、火で加熱している釜(おそらく茶色の部屋の内?)に入れて溶かし、雑物を取り除き、溶けたものを図の下に見える箱に入れたと推定される。そして、少し冷まし、乾かした後に土瀝青を饅頭状に盛り上げて、頂部に煙突を付けて油煙を発生させたのではないだろうか。その火元口が反対側にあるのか、それとも図にある1ヶ所だけなのか不明である。なお、油煙が発生しているときは四方に戸を立てて、戸の内側に張り付いた煤を採取したのであろう。労働者が全身真っ黒になり作業をしている姿はその労働の厳しさが伝わってくる。

しかし、この油煙製造は明治末には殆ど行われなかった。

豊川近代化産業遺産
豊川近代化産業遺産

近代化産業遺産「豊川油田」 その4

天然アスファルトマニアにして地質の専門家佐々木榮一さんの「天然アスファルト利用の産業史」。4回目の今回、いよいよ佳境に入ってきました。秋田の天然アスファルト=土瀝青は道路舗装、防水という大きな市場をターゲットに、採掘・生産の近代化が大きく進みます。
増大する需要に応えるため、黒澤利八は土瀝青の純度を高めた「万代石」を完成させます。豊川村はゴールドラッシュならぬブラックラッシュ=天然アスファルトの採掘で大変な活況を呈することになる。このあたりの様子は、佐々木さんによる豊川村の古老への聞き取り記録「豊川油田の思い出(写真)」に詳細に記録されている。

豊川油田の思いで
「豊川油田の思い出」

近代化産業遺産「豊川油田」

4.天然アスファルト(土瀝青・どれきせい)採掘と産業の歴史
②天然アスファルト(土瀝青)から「万代石」製品の誕生

図-10
図-10(図をクリックすると拡大します)

天然アスファルト(土瀝青)の新たな産業への応用は明治に入るまで動きはなかった。明治5年(1972)欧州に岩倉具視等と共に視察した東京府の知事由利公正(きみまさ)はロンドン市においてアスファルト舗装の状況を視察した。彼は東京における明治10年第一回内国勧業博覧会で秋田県豊川の黒澤家から天然アスファルト(土瀝青)原鉱を買い入れて、その会場においてアスファルト舗装を計画した。残念ながら、アスファルトが燃え上がる事故があったために実現出来なかった。なお、この博覧会に黒澤利八(平八)は土瀝青と抽出した灯火用品を展示している。由利公正(きみまさ)は翌年の明治11年東京神田の昌平橋で規模の小さい日本で初めてのアスファルト舗装(橋面舗装)を実施した。この工事のために黒澤利八から土瀝青の原鉱2百俵購入している。また、同年に由利公正は疎通社を創立し、アスファルト舗装事業の普及を行っている。

図-11
図-11(図をクリックすると拡大します)

土瀝青は道路や橋梁の舗装用敷材、防水や防湿の建築材としてその利用が多方面に広がり需要が次第に増大した。その当時の土瀝青の製品は粗末なもので、土瀝青の塊から草木や砂利等を取り除いた原鉱そのものでしかなかった。明治12年豊川の土瀝青採掘地を視察したドイツ技術者がアスファルトの精製法の技術書を提供してくれた。その本の翻訳後に黒澤利八(平八)はその技術を導入して新たな製品「万代石(まんだいせき)」(固形アスファルト製品)を完成させた(明治15年頃)。万代石は土瀝青の塊を数日間日光で乾かし、その塊を釜の中に入れて加熱し、夾雑物を除去する。溶けた土瀝青を成型に流し込んで製品にした幼稚なものであった。その製品は性状から3種類に区分されている。図-10は明治20年頃の万代石製造法の図であり、小屋の中にレンガ作りの3つの釜で土瀝青を溶解して、万代石を作る。図面は三方向から見た装置の形態を示している。図-11は現存する万代石で、明治40年代の製品と推定される。これは明治40年代の日本アスファルト工業(株)に続いた(資)「日本アスファルト工業所」の坂本勝美氏から提供を受けたものである。

図-12
図-12(図をクリックすると拡大します)

図-12は豊川油田地域における土瀝青の分布とその採掘地(推定)を示す。これまでの資料を基に筆者が作成したもので、6~7ヶ所において採掘され、採掘地のそれぞれの規模は明らかでないが、長径100m、深さ15mを超えるものがあったという。明治時代中頃までの土瀝青採掘は北部の保龍田・蘭戸下地区や龍毛後山地区及び鳥巻沢地区が中心であり、明治後半になってから真形尻地区の採掘が盛んとなったと推定される。

図-13
図-13(図をクリックすると拡大します)

図-13は豊川村の鳥巻沢地区における土瀝青採掘の様子(明治15年頃)を示している。

図-14
図-14(図をクリックすると拡大します)

図-15
図-15(図をクリックすると拡大します)

土瀝青の採掘と精製が最も活況を呈したのは明治30年代中頃以降であった。明治36年(1902)土瀝青が初めて独立とした鉱物として鉱業条例に編入された。最初に出願したのは広田万治、黒澤利八、鈴木農太朗、平野源次郎等総員98名に及ぶ大勢の権利者が存在し、鉱区の境界争いが続いた。そのためにその筆頭に広田万治がなり、その操業を平野源次郎が一手に引き受けて土瀝青の採掘を行った。当時の土瀝青採掘の様子を宮田松夫(1964)は「原鉱を掘る人夫達が狭い真形沢に集中したので、体と体が触れ合って身動き出来ない程一杯になる。手には唐クワやスコップを取って掘り出すもの、又は掘った原鉱をモッコに入れて運ぶものなど、人の右往左往する有様は、ありが獲物を持ってウロウロする姿に似て活況を呈したという。また、精錬のために原鉱を溶解する釜が40基も取り付けられ、その釜から煙がモクモクと空に舞い上がり、一面にたなびいてその周辺一帯が煙の林のようになって実に壮観であった。…後略」述べている。図-14は豊川村真形沢地区の土瀝青採掘現場の写真で2枚の写真を合わせたものである。明治30年頃の撮影と言われる。土瀝青の需要に追いつくために200人~300人程の多くの労務者が働いていたらしい。この写真の左奥に見えるのが黒澤家の家屋であり、その山の上に油煙山稲荷大明神神社が存在している。図-15はその一部を拡大した写真で、採掘業を携わる人々の姿である。それぞれの人達の役割は不明であるが、アスハルト穴原商會と書かれた法被(はっぴ)を着た作業員とその親方たちの容姿はこの事業が地域産業の中で最も盛大を極めた雰囲気をかもし出している。

図-16
図-16(図をクリックすると拡大します)

図-17
図-17(図をクリックすると拡大します)

一方で、土瀝青採掘中には様々なものが出土している。その一例が氷河時代のナウマンゾウ化石歯、旧猪の頭骨や鹿の角等で、その他に縄文時代の土器片が出土したことが報告されている。図-16はナウマンゾウの化石歯で、図-17は旧猪の頭骨の化石である。現在、秋田大学工学資源学部付属鉱業博物館において保管・展示されているが、どの採掘地で採取されたのかは不明である。また、藤岡一男(1983)は国立科学博物館において土瀝青から出土した動物化石を所蔵していると報告している。同館の記録簿によると明治39年1月豊川村槻木の広田庄三郎から寄贈された旧象歯化石と哺乳類の骨、更に同地域で明治38年8月採取された鯨骨化石の3個が記録されている。そして現在資料として残っているのは旧象化石1個のみであるという。

図-18
図-18(図をクリックすると拡大します)

図-18は藤森峰三が明治38年(1905)の東京人類学会誌に紹介した土瀝青採掘時に採取された遺物の一部である。土器が十数個、動物の骨が数個採取され、採取場所は水田の水面下一丈四五尺(約3m)程掘り下げたところとある。土瀝青の分布も同時に示してあり、図-12の真形尻地区から出土したと推定される。

図-19
図-19(図をクリックすると拡大します)

明治40年代に入って、いくつもアスファルト採掘会社が設立され、競争が激しくなってきた。明治40年(1907)土瀝青採掘会社としてアスファルト工業(株)と日本アスベスト会社のアスファルト部門が合併し、中外アスファルト(株)が設立された。他に日本アスファルト商会(後の日本アスファルト工業)の2社が中心となって豊川地域の本格的な天然アスファルト(土瀝青)の採掘・精錬事業が始った。アスファルトの用途は明治30年代後半から徐々に広がりを見せ、東京水道局の貯水池におけるアスファルト塗布の工事、工場や駅、軍の関連施設等の舗床工事、アスファルト瓦工事等が増加してきた。国道におけるアスファルト舗装も明治36年(1903)に始った。図-19は明治32年頃の東京市淀橋水道沈殿池のアスファルト塗布の状況を示す。

図-20 図-20-2
図-20(図をクリックすると拡大します)

明治40年頃の土瀝青製品は改良された精錬装置によってより純度の高い製品が得られる努力が行われている。中外アスファルト(株)の製法は以下のようであった。「野天堀りで採取した原鉱を一番株、二番株及び焚き株(燃料)に分け、一番株と二番株には、沼地などから採取した瀝油を少し加えて過熱溶解し、金網を使って粗大な不純物を取り除いただけのもので、その精錬装置も半円型の釜2枚を1組として、図-20のように複数配置するという極めて単純なものであった。焚口近くに溶解釜、その奥に乾燥釜を置き、天日乾燥した原鉱をまず乾燥釜に入れて余熱乾燥の後、溶解釜に移して加熱撹拌する。温度が上昇して流動状に達すると、原鉱に混入していた草根片は浮遊し、礫粒岩片、土塊等は沈殿するので、これを一分五厘目大の金網をもって除去する。原鉱の種類によって溶解点が異なるので、それぞれの溶解点まで加熱後、静かに放冷する。適温まで下がった時、木製の型に流し込み、凝固した後、木枠を取り外して品種名を刻印し、商標を付し商品として出荷した。その大きさは縦一尺七寸(約51cm)、横一尺(約30cm)、高さ六寸五分(約20cm)で、重量は十三貫五百匁(約50.6kg)前後である。1組の釜で1日当り五十貫前後を製造することが出来た。この製品を製造するためには重量にして約2倍の原鉱を必要とした」(「日本鋪道五十年史」より)。なお、製品としては「純良アスファルト」、「精製アスファルト」及び「BB印アスファルト」等の三種類が存在した。

図-21
図-21(図をクリックすると拡大します)

天然アスファルト(土瀝青)の生産量は明治40年頃までは年間300~500トンであったが、工業的な生産の増加により、3,000トン以上にまで達した。この生産量は明治42年の4,137トンをピークとして下降線をたどり、大正11年以降はほとんど採掘されなかった(図-21)。その理由は土瀝青の資源量が枯渇してきたことと、後述する豊川油田の発見に伴い、多量の原油生産により、原油の精製が増加し、特に大正8年以降は原油精製に伴う石油系アスファルトの著しい増加によるところが大きい。

図-22
図-22(図をクリックすると拡大します)

図-22は大正初めの頃の写真で天然アスファルトの採掘の光景を示すものである。

万代石
万代石

近代化産業遺産「豊川油田」 その5

屋根にアスファルトを塗っているという、防水業界にとっては貴重な明治時代の画です。

蓑虫山人:土瀝青を塗る図
蓑虫山人による「土瀝青を塗る図」(明治20年頃)

天然アスファルト研究家・佐々木榮一さんの「近代化産業遺産・豊川油田」その5、今回の目玉は何と言っても上の画でしょう。明治20年頃、放浪の画家。蓑虫山人(みのむしさんじん)によって画かれました。

放浪の画人として知られる蓑虫山人は、天保7年(1836)美濃国(岐阜県)安八郡結村生まれ。本名・土岐源吾、「蓑虫仙人」「三府七十六県庵主」「六十六庵主」とも称した。 嘉永2年(1849)14歳のとき以来、48年間にわたって諸国を放浪しました。

ふと窓の外を見ると、何たる偶然。明治20年頃と同じ作業を120年後の平成24年の今日、やっているではありませんか。道具も同じ。違うのは桶が缶になっただけ。
これはもう言葉は要りません。写真を並べるだけです。

屋根に塗る

近代化産業遺産「豊川油田」

③瀝油の採取の話

図-23
(図をクリックすると拡大します)

瀝油という言葉を御存知だろうか。瀝油malthaとは「黒色粘稠(ねんちゅう)の石油で、アスファルト基の石油が本来の油層から漏れて、大気にさらされ、アスファルト化の段階にある濃重粘稠の石油」である(大村一蔵、1934)。最近まで瀝油採取の事は知らなかった。この産業の存在を知るきっかけとなったのは一枚の写真との出会いである。図-23は「豊川村真形沢瀝油採取光景」の写真である。この写真は小藤文次郎(1856~1935)の資料として東京大学総合研究博物館に所蔵されていたもので、この他に豊川油田に関するものとしては図-14と同じ土瀝青採掘地の二枚の写真が存在する。小藤文次郎先生は明治・大正時代の日本の地質学、特に岩石学とテクトニクスの指導的な研究者の一人として知られている。明治18年から大正10年までの36年間東京大学の教授として多くの後継者を育てている。明治24年10月24日有名な濃尾地震が起きたときに早速現地を訪問して、詳細な調査を行い、根尾谷断層の生々しい写真を学会に発表したことでも有名である。先生は何故、豊川地域に興味を持ったのだろうか。石油地質学に興味を持ったのだろうか。私の勝手な推測は天然アスファルト(土瀝青)の産状に興味を持ったのではないかと考える。その理由は世界の大きな天然アスファルト鉱床、例えばトリニダッド島やヴェネズエラのバーミューズ湖等は大規模な断層に伴って形成されている事から、テクトニクスの研究の視点から興味をもったのではないかと想像する。豊川油田の天然アスファルトの産状は幾つかの断層運動に伴って形成されたものと推定され、更に豊川油田の原油の貯留層は割れ目(フラクチャー)が主であると考えられている。

画像の説明
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さて、瀝油の話に戻る。この写真を豊川真形地区の人に見てもらったところ、これは「突っ突き油」又は「屋根油(やねあぶら)」の採取の写真であると説明をしてくれた。現在、豊川油田を操業している東北石油(株)社長平野俊彦さんの祖父である平野夘一郎(1889~1971)は明治末頃から、この瀝油の採取をしていたという。写真の一帯は土瀝青を採取した跡と推定されるが、水没している。船に乗っている人たちは瀝油を採取するために竹の竿を水面下に下ろし、地面を突き刺しながら浮かんでくる瀝油を集めていた。各人の採取できる範囲は木や竹でそれぞれの境界の範囲を決めて作業を行っていた。この作業はこの地域に住んでいる農家の人々が農閑期に副業として行っていたという。採取した瀝油は屋根油と言われるように塗装に使われたらしい。図-24は前出の蓑虫山人による「土瀝青を塗る図」(明治20年頃)である。この絵では土瀝青となっているが、石油泥と俗称として書かれており、性質としては瀝油と同義語と考えられる。屋根などに塗るのは腐汚を防ぐために行うもので、塗ることで5~6年の差が出てくると記述している。

図-25
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現在の真形地区の人達の話によると、この瀝油採取は昭和30年代初め頃まで続いていた。図-25は昭和25年頃の瀝油(屋根油)を集めドラム缶に入れ、当時のトロッコ車に載せて運び出す様子の写真で、真形沢の平野家の前で撮影された。この作業は農家にとって大事な副収入であった。

5.豊川油田における天然アスファルト採掘地跡の産業遺産

図-26
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豊川油田地域における天然アスファルト利用の産業の歴史を述べてきた。しかし、その足跡の保存状態は非常に寂しい限りである。今回の近代化産業遺産の認定の対象として真形尻地区の2ヶ所の土瀝青採掘(図-26)と鳥巻沢地区の跡地を申請し、認可を受けた。残された地域の保存は私達の課題である。

図-27
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一方で、この豊川油田地域には天然アスファルトに関する自然遺産が存在している。図-11の保龍田・蘭戸下地区では段丘堆積物に天然アスファルトが充填しているアスファルト層が広がっている。また、真形尻地区では丘陵地を形成している船川層(約600万年前に海底に堆積した地層)の泥岩の割れ目には瀝油又はアスファルト状のものが数多く観察できる(図-27)。これらの地質遺産を今後の地域資産として活用を進めて行きたいと考えている。

〈謝辞〉
本文を上梓するにあたって、多くの方々から御意見、資料の提供を受け、更に文献からの引用をさせていただきました。ここに厚く御礼を申し上げます。また、本文にて掲載した写真を提供して頂きました東京大学総合研究博物館様、秋田大学工学資源部付属鉱業博物館様、潟上市教育委員会、黒澤耕造様、平野修悦様、鈴木整様に御礼申し上げます。

画像の説明
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〈参考・引用文献〉

  1. 石川理紀之助 (1898) : 豊川村適産調総覧
  2. 藤森峰三 (1905) : 秋田県下に於いて土瀝青と共に発見される化石及び土器 東京人類学雑誌 第234号
  3. 大村一蔵 (1934) : 石油地質学通論 岩波書店
  4. 宮田松夫 (1964) : 平野源次郎とアスファルト事業 平野源次郎事跡顕彰会
  5. 佐々木房生 (1975) : 黒沢利八「あきた」Vol.16、No.3
  6. 石井忠吉他 (1981) : 蓑虫山人全国周遊絵日記「秋田編」
  7. 藤岡一男 (1983) : 秋田の油田 秋田魁新報社
  8. 日新工業(株) (1984) : アスファルトルーフィングのルーツを訪ねて 日新工業創立40周年記念誌
  9. 日本鋪道(株) (1985) : 日本鋪道五十年史
  10. 高安泰助 (1985) : 豊川油田と槻木のナウマン象 秋田大学鉱業博物館 13号
  11. 佐々木榮一 (2006) : 「豊川油田の歴史と産業・文化遺産」展を振り返って 石油開発時報 No.150
  12. 佐々木榮一 (2008) : 「豊川油田の思い出」 天然ガス No.2

最終回の準備をしていたら、続編が届きました。

経済産業省による近代化産業遺産の「認定」を受けた《近代化産業遺産 『豊川油田』―その2》です。天然アスファルト研究者佐々木榮一さんの次の記事は「豊川油田の発見と開発・生産の操業の歴史―」です。

豊川油田は平成19年11月30日に経済産業省から近代化産業遺産の「認定」を受けました。ルーフネット89号までは近代化産業遺産の意義と認定にいたるまでの経緯、そして近代化産業遺産の認定を受けた豊川抽田の特徴の1つである「天然アスファルト利用の産業史」を述べていました。

続編では豊川油田の発見から、開発・生産の操業の歴史及び油田の特徴が紹介されます。豊川油田は秋田県のほぼ中部の潟上市と秋田市に位置し、大正2年の発見から既に96年を経た現在も僅かな量の天然ガスを生産していますが、油田の閉鎖は間近です。

続編の掲載をお楽しみに。

>>近代化産業遺産「豊川油田」全文を読む

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