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来待石(きまちいし)の棟石(むないし)

来待石(きまちいし)の棟石(むないし)

Odoroki Hakken取材日記

二の鳥居PG9P6773

生まれて初めての出雲大社である。出雲空港からの直通バスに乗り、運転手兼ガイドさん曰く「強烈な西風を防ぐための屋敷林に守られた家」を、窓から眺めながら揺られること約30分。一畑(いちばた)電鉄の出雲大社前駅着いたのが、2018年6月15日午前10時。荷物を預けることなく緩やかな上り坂の参道を数分歩くと、「勢溜の鳥居」と言われる二の鳥居についた。「勢いが溜まる」と書いて「せいだまり」と読む。木造の大鳥居のあちこちに銅板が使われていることをチェックした後、出雲大社社殿の屋根撮影のためのロケハン開始。

坂を上り詰めた、ここがいわば「出雲大社の入り口」にあたり、この手前には宇迦(うが)橋の石造りの一の鳥居がある。本殿に向かって下がってゆく珍しい松の下り参道の途中で鉄の鳥居、日本最古の銅鳥居と合計4つの鳥居をくぐって参拝する。そのせいではないが、出雲大社参拝の際は、一般の「二礼二拍手一礼」ではなく独特の「二礼四拍手一礼」が正しい作法となる。

448松の参道PG9P6827
松の参道。鉄製の三の鳥居。

本殿はじめ瑞垣内の社殿が檜皮葺であるのは予め知ってはいたが、境内の多くの建造物がダイナミックな銅板葺きであることに、やや興奮気味。それらの屋根は後日紹介予定。

案内図 PG9P6803
(画像をクリックすると拡大します。)

北島国造館四脚門 棟の石 PG9P8025

社殿の屋根の前に、ここで記しておきたいのが「棟石(むないし)」だ。それは境内左の千家国造(せんげこくそう)館と右の北島国造(きたじまこくそう)館の屋根に置かれた石である。

北島大門PG9P8155

棟に置かれた石、というのは初めて見た。また出雲大社の大宮司を務めた千家国造家と北島国造家の建造物、および社家の門の屋根にのみ見られたものだから、北島国造館の神職に「あの石は何ですか?宗教的な特別な意味があるのですか?」と尋ねてみた。石の種類は「来待石(きまちいし)」と言って地元特産の石だが、意識したことはなかった。古い神職に聞いておきましょうと」、言われた。

&画像の説明

夕刻、稲佐の浜に向かう途中、民家の屋根にも石棟発見。必ずしも神様とは関係がないのかもしれない。

そして翌日、北島国造館の神職から丁寧な返信メールをいただいた。 
曰く「どのような経緯で設計されたかは、流石にわからないようですが棟の石は屋根が風に飛ばされないようにあると聞いているそうです。なぜなら、昔は瓦屋根ではなく、葺屋根であったため、 西風の強い地方でもあるため、重しとして使っていたのではないかとのことです。  また、来待石はこの地方の特産品でもあるので、出雲國造家に寄進されたものかもしれません。  このことが伺えるのは、やはり「北島國造家四脚門」です。これは、江戸時代の寛文の御造営のときに 御本殿後方にあった國造家の門を移築したものです。こちらも今までに数回修造を行っていますが、 昔の造りをほぼそのまま残しているものですので、この門の屋根が答えとなると思います。因みに、四脚門の屋根は、「こけら葺き」で、今回の修造では「サワラの木」を使用しています。 京都の桂離宮の葺き方と類似していると聞いています。北島國造家では、残せるものは徹底的にのこしたいとの考え方から、今でも可能な限り昔の造りを 残しているのではないかと思います。」という。
ありがたいことである。

翌日は「島根県の右にある鳥取県」の大山で、日本茅葺き文化協会の茅葺きフォーラムが開催され、米子で参加メンバーと合流する。 代表理事である安藤邦廣先生を見つけて、さっそくこのことを尋ねる。
「それは来待石だね。地元特産の石で、よく屋根にも乗せる。風の強い地域だから載せた宗教な意味はない。砕いて石州瓦の薬としても使う。」
先生の回答だった。

石州瓦工業組合のHPに来待釉薬の詳細あり。
http://www.sekisyu-kawara.jp/howto/story/kimachi/index.html

三州瓦、淡路瓦とともに日本三大瓦と称される石州瓦の特徴は良質な陶土と来待(きまち)という名の釉薬である。来待釉薬は、島根県の東部出雲地方で採掘される来待石からとれるもので、耐火度が極めて高く、耐火度の高い都野津陶土と合わさって、石州瓦が生まれた。
来待石は、約1400万年前に形成された凝灰質砂岩で、来待町の埋蔵量は世界有数。江戸時代から出雲石灯篭(国指定の伝統的工芸品)として全国に知られていた。来待石は、古墳時代の石棺、中世以降は石塔、石仏、棟石、墓石、石臼、建材などに使われ、近世中頃からは釉薬の原料となり、石見焼きや石州瓦を生み出していった。
来待石はやわらかく加工しやすい材料で大変貴重な物産として、江戸時代松江藩は藩外持ち出しを禁じていた。

門脇家PG9P0430

PG石棟9P0303

そのことを目の当たりにしたのが、フォーラム2日目の6月17日。見学コースにあった重伝建地区の所子(ところご)の街並みである。重文の門脇家の母屋から蔵といった主な建物はもちろん、町のあちこちの棟に石が載っている。案内してくださった門脇家の当主に石のことをお尋ねした。「屋根に石が載っていますが、あれは何ですか?」 地元の人の言葉で聞いてみたかったからだ。

「地元の来待石です。加工がし易いので、家紋が彫られています。風が強い場所ですから、重しでしょうか」との答えだったのだが、ここでいただいた大山町教育委員会が制作したB5版三つ折り6ページのパンフレット「重要文化財ー門脇家住宅」に「棟石(むないし)」のことが、次のように書かれていた。

冊子門脇家住宅

棟石(むないし):棟に利用される切り石は「棟石」と呼ばれ、伯耆から出雲地方にかけて見られる伝統的な棟積みの形式である。棟石の長さは1本63.8㎝(2尺1寸)で、門脇家では来待石が用いられている。棟石の頂部は鎬(しのぎ)状に、底面は瓦に据えやすくするため、湾曲した形に加工されている。

2018/06/23(土) 19:47:14|ニュース|

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