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小堀・燃土燃水献上図の謎解き

小堀・燃土燃水献上図の謎解き

芸大所蔵、小堀「燃土燃水献上」下図

下絵
東京芸術大学所蔵。
小堀鞆音(こぼりともと1864-1931)「天智帝朝越国燃土燃水/下図」
71.2×99.3。裏面に「大正三年博覧会出品画」と記されている。

「東京芸術大学百年史」第2巻の大正3年の章に「東京大正博覧会」に関する以下の記載がある。

東京大正博覧会
大正三年三月二十日より同年七月三十一日まで上野公園を中心会場として東京府主催の東京大正博覧会が開催され、本工教官の中にも美術部の審査に加わった人が多かった。
(編集部注:高村光雲教授、黒田清輝教授らと並んで小堀鞆音教授ら17名が審査官を嘱託された)
この博覧会は上野公園と不忍池畔にセセッション式や東洋式の展示館が数多く建てられ、東京府を始め北海道庁、二府四十二県、各省官立諸学校、研究所、試験所、台湾朝鮮両総督府、関東庁、樺太庁、諸外国が出品するという大規模なもので有ったが、美術の部門はあまり振るわず、日本画で平福百穂の「鴨」(六曲半双)が、西洋画で新帰朝者太田喜二郎の「赤い日傘」、彫刻で同じく新帰朝者水谷鉄也の「スペインの踊り子」などが注目されただけであった。本校としては教育学芸館に校名額一、敷地建物平面図一、校舎および各教室写真十一を出陳した。

大正博
東京大正博覧会会場(美術館)

小堀鞆音が「燃土燃水献上図」の下図を出品するはずはないから、完成した「燃土燃水献上図」を出品したはずだ。すると出品したが賞も受けず、注目もされなかったのだろうか。

小堀は審査員であるから、賞の対象からは除外するので有ろうか? 

それとも出品するつもりで下図までは画いたが、何らかの理由で出品しなかったのか? 

もうひとつ考えられるのは、この博覧会には日本石油が全社を挙げて展示に注力した。「燃土燃水献上図」は日本石油の展示コーナーに出品されたのか?しかし日本石油が創立70周年で作った記念誌の「東京大正博覧会出品一覧」の中に、この画の名はまだ見つけられない。

そもそも大正3年では「日本石油創業30周年を記念して依頼した」という説と相応しない。30周年はその3年後、大正6年であるから。

2010/11/29(月) 20:05:42|ARCHIVES|

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