伏見雅光さん(元三星産業取締役技術部長)死去
伏見雅光さん(元三星産業取締役技術部長)死去
我が国の防水工事会社としては高山工業と双璧をなした三星産業の元取締役技術部長・伏見雅光(まさみつ)さんが、1月28日午後6時25分、武蔵野日赤病院で死去。行年82歳。自宅療養中であったが、当日午後5時頃病状が急変、救急車で日赤病院に運ばれたが、まもなく死去した。
通夜 :2月1日(月)午後6時ー7時
告別式:2月2日(火)午前11時ー12時
喪主 :妻・伏見 廸 さん
式場 :禅林寺 霊泉斎場 第2斎場
0422-44-8365
住所 :三鷹市下連雀4-18-20
最寄り駅 JR中央線「三鷹駅」南口下車徒歩10分
故人は防水業界においては技術面での中心人物の一人として活躍した。業界を退いた後は水彩画の手ほどきを受け、定期的に作品を発表していた。
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上の写真は2008年10月24日東京有楽町の交通会館2階ギャラリーで行われた武蔵野写生会2008・秋季展に「教会・門前石垣」の2作品を出展した時のもの。当日アスファルト防水の仲間達との「四五六会」定例会が展覧会にあわせて開催され、メンバーの木下晴義、中西正直、藤井和夫、丸山功、石田節子(事務局)の各氏が出席した。
故人とそのアスファルト防水の仲間達の活躍ぶりは 2008年10月のアーカイブ記事をクリックしてごらん下さい。
伏見さんの思い出を 元大成建設建築部長、建築学会でも仕上げ材料部門の責任者を務めた後、現在でもNPO建築技術支援協会で防水やコンクリー関連問題でコンサルタント活動を続けている鶴田 裕さんに聞きました。
伏見さんとの初対面は東京オリンピック前の昭和37年頃、上司につれられて当時田島ルーフィングの本社の近くにあった三星産業の岩崎社長を訪問した時ですから、かれこれ50年近くのお付き合いになります。伏見さんのお人柄を一言で言えば本当に誠実な方で、目上にも目下にも公平に対応される方でした。
最後にゆっくりお会いできたのは4~5年前の鹿島建設OBで、足利工業大学教授になられたコンクリートの大家・依田彰彦先生の最終講義の席でした。その後の懇親会を含め足利でゆっくりお話が出来ました。
その後、伏見さんが退職後に始められた絵の合同展の時で、めきめきと腕を上げられていたのは驚きでした。昨年の7月に電話でお話できた時に、3月ごろに手術をしたが快方に向かっていること、この間の年賀状の文面からは予想だに出来ない今回の訃報に接し、大変悲しんでいます。現業の立場から防水に誠心誠意取り組んでこられた方のご冥福を祈ります。
みぞれ降る夜のお別れ
最後は苦労をともにした仲間が
雪混じりの雨の中、伏見雅光さんの通夜に200名。2日の告別式には東京は2年ぶりの積雪で交通機関が大混乱したにも関わらず遠来の人も含め40名が参列。
左端は東京工業大学小池名誉教授。告別式の後、鶴田裕さんと「岩崎一さんにピッタリと寄り添っていましたね。真面目、誠実としかいいようの無い人でした」と声をそろえていました。
元三星産業社長の岩崎崇さんも通夜式の後、防水関係者と故人の思い出話に華を咲かせつつ「私が何かの原稿や、挨拶の原稿を書くと、親父(岩崎一氏)が、必ず〔伏見君に見せたか?〕としつこく言ったものです。私はいつも「はい」とは言ってましたが、実は見せていませんでした。私の文体とは違いますからね。親父は故人に全幅の信頼を寄せていましたね。」と話していました。
友人代表・丸山 功さんの挨拶
丸山 功氏の挨拶
故人との出会いは昭和30年半頃ですから半世紀にわたるお付き合いでした。偶然にも同じ歳、故人は昭和4年7月27日に仙台で生まれ、私は12月1日に東京の下街で生まれました。
同年のせいか、共通の話題も多く、小・中学校の頃のことなど、地域の差こそあれ、お互い苦労した戦時中の勤労動員の思い出など、泊りがけの旅行の時など、夜の耽るのも忘れて話し込んだこともありました。故人は東北人らしく真面目で穏やかな性格で、多くの人から尊敬される存在でした。話口も一言一言言葉を拾いながら、丁寧に話す人でした。
「血は争えないな、防水よりも学校の先生のほうが向いているよ」と冗談を言ったこともありました。確か故人の父君は仙台で教鞭をとられていた、と伺っていました。その血は二人の息子さんに、立派に引き継がれています。
故人は縁あって防水大手の三ツ星産業に就職し、一貫して技術部門にあり、取締役技術部長の地位にまで登りつめました。退職後は水彩画の世界に没入し、いかにも自分の性格を表現したような繊細な筆致で素人はだしの絵を描き、多彩な一面を見せ、悠々自適の羨ましい余生を送っておられた。
一期一会の人生でこのような友を得たことを、私は誇りに思っています。
2010/01/30(土) 00:29:06|ひと|