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「小堀鞆音・燃土燃水献上図」再発見!

防水の起源を現した歴史画「小堀鞆音・燃土燃水献上図」再発見!

10月1日、佐野市立佐野吉澤記念美術館で本邦初公開へ。

小堀鞆音発見

明治・大正期の日本を代表する歴史画家、小堀鞆音の作品「燃土燃水献上図」はこれまでの作品目録や、年表には記録がない。もちろん展覧会で出品された形跡もない。日本石油が発注者であり製作年は後に説明するが、大正3年であることは間違いなさそうだ。日本石油役員室の壁に掛けてあるはず、と何人かの人は言う。しかし近年、原画を見ることはできなかった。

 「日本石油の役員室にあると聞いた」、また「役員室で見た」、という目撃証言のほか、この画をもとに制作された、色紙(シンクルトン記念館開館記念品として)、サイン(看板)やポスター(シンクルトン記念公園各所にあり)、ジオラマ(黒川伝習館に展示)などが存在する。
 
画を精密に模写した彫金作品は京都清水三年坂美術館が所蔵し、刺繍作品は丸山 功氏の手を経て、防水メーカー田島ルーフィングの応接室の壁を飾っている。 東京芸大にはこの画の下図が残っている。
 
 近江神宮の社報「志賀」の夏の号の燃水祭の記事に合わせて、小堀鞆音のこの画は何度も登場する。近江神宮はこの画に「燃水祭のいわれ」を添えて、境内に大きな看板を作った。また後年、前田青邨が画いた「燃える水献上の図」は、画かれた経緯や背景を鑑みれば小堀鞆音の画と無関係に画かれたとは考えられない。

シンクルトン記念館

 この画がなぜ防水の起源と関わるかという理由は次の通り。

 アスファルト=瀝青が文献記録に表れるのは、西洋では旧約聖書・ギルガメッシュ叙事詩。ここで、明確に防水目的での使用例が記され、考古学的遺跡も発掘されている。(本サイト「聖書と防水3部作」参照)

[[「聖書と防水」3部作 http://roof-net.jp/index.php?%E3%80%8C%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%81%A8%E9%98%B2%E6%B0%B4%E3%80%8D%EF%BC%93%E9%83%A8%E4%BD%9C>「聖書と防水」3部作]]

 日本でも縄文時代の土器の補修、矢じりの接着などに用いたことが、出土品から明らかになっている。また竹かごに漆の代わりにコーティングされた、いわば旧約聖書の「ナイル川に流された幼いモーセを救った籠」に匹敵する防水材的使用も、指摘されている。
 
 日本でこのアスファルトが記録に登場する初見が日本書紀なのである。天智天皇7年の項に「越の国より燃える土燃える水を献上した」とある。この「燃える土」が天然アスファルト、燃える水が石油である。

 日本石油は大正3年、大正博覧会及び直後に計画されていた創立30周年式典をにらんで、当時の帝室技芸員にして歴史画の父・小堀鞆音に燃土燃水献上図の製作を依頼した。

 ところが、大正3年に完成したはずの画は、大正東京博覧会の出展目録にはなく、日本石油の創立30周年記念式典之展示目録にはない。記念誌の挿絵に使用されただけである。この画は日本石油の応接室を飾っていたといわれ、関係施設で、図柄が引用されることはあっても、原画を見ることはできず、美術界では全くその存在が知られていなかった。

小堀鞆音

 左はルーフネットのブックレット「日本書紀と防水」。東京芸大が所蔵する下画に描かれた寸法と同じだった。

 あるきかっけで、6月中旬、小堀鞆音之生地佐野市の佐野吉澤記念美術館の学芸員が、都内で同画をチェックした。その結果、小堀鞆音円熟期の優品であり、多少傷はあるが十分展示に耐えるものである事を確認、出品交渉に入っていた。同美術館では、すでに10月1日から、小堀鞆音没後80年記念展を準備していたが、急きょこの画の追加展示を決めた。交渉は順調に進んでいる模様で、計画通り進めば、10月1日、佐野市の美術館で本邦初、日本書紀に書かれた防水の起源を描いた幻の歴史画を見ることができる。

http://www.city.sano.lg.jp/museum/conduct/14.html

2011/07/13(水) 00:00:16|ARCHIVES|

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