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「アスファルト及びその応用」そして「ニチレキ」の生き証人

「アスファルト及びその応用」そして「ニチレキ」の生き証人

「アスファルト及びその応用」「日本アスファルト物語」の真の編集者は山本哲朗さんです。(丸山功キュレーター談)

山本氏

1931年、長野県諏訪中学入学。1946年復員。1983年、日瀝化学工業(株)常務取締役退職。現在(社)日本カンボジア協会常務理事。駐日カンボジア王国大使館特別補佐官、池田20世紀美術館役員。著作:コーランの世界

山本氏&丸山氏

左が1983年に日瀝化学工業常務取締役を退職した山本哲朗さん。右は防水歴史図書館の丸山功キュレーター。

丸山:日瀝化学工業池田英一社長の片腕として、山本哲朗さんは同業会(社団法人日本アスファルト同業会)の会合にはほとんど出てらっしゃいましたね。アスファルト同業会編の「アスファルト及びその応用」編集の際も八重洲のアスファルト会館にはいつも山本さんの顔が見えたし、池田英一さんの「日本アスファルト物語」も実際のまとめは山本さんがなさったと聴いています。

山本:このルーフネットでも編集長の森田喜晴さんがよく調べておられるように、アスファルトが日本で初めて記録に現れたのは、日本書紀の記述にあるように西暦668年です。その後の記録はほとんどありませんが、寛政年間から明治にかけての長い年月、天然アスファルトが利用されて油煙が製造され、墨その他に活用されていたことはほとんど知られていない。僅か数トンの天然アスファルトの使用から始まった需要が、石油アスファルトが開発された大正時代を経て」、「日本アスファルト物語」が書かれた頃、昭和53年には年間522万トンを越える巨大な量に成長している。にもかかわらず、アスファルト関係者ですら、アスファルトの歴史、性質、全体像などの認識は極めて低かった。池田さんは本当に慾の無い人でしたが、常々「歴史を知った人がいなくなること」を心配していた。その不安が池田さんを、「アスファルト及びその応用」や「日本アスファルト物語」の製作に駆り立てたのだと思いますよ。

森田:「アスファルト及びその応用」では市川良正さんが監修者のような位置づけになっていますが、実際のところどうだったんでしょう。

山本:編集会議で、実務スタッフがよく頑張りました。先生は寡黙な方で、最終段階でお伺いをたてると、先生は「ウン」と一言だけ言われましたね。(笑)

丸山:最晩年、市川先生はは少し具合が悪かったようですね。総会の席で会長としては、妙な挨拶をされ、会場が騒然とした記憶があります。

森田:「日本アスファルト物語」の方は池田英一さん個人の著作ですから、山本さんはさらに深くかかわられたのでしょうね?

山本:池田さんは編集後記で何度か私への謝辞を書いてくれました。校正の際、その度私がその部分を消すのですが、池田さんはまた書く。そんなことが何度もあって、最後に池田さんが根負けされた。だから私の名前は残っていません(笑)。

丸山:社団法人全国防水工事業協会の100周年記念誌で私も匿名記事を幾つか書いています。名前を消した、という気持ちはよくわかります。



画像の説明

2010.12.1東京・神楽坂鳥茶屋別亭での取材記録より。
この日の対談の様子はARCHIVESで順次紹介します。

右の本は、山本さんが2009年に9月22日にまとめた296ページの労作。

2010/12/10(金) 09:32:25|ARCHIVES|

関連する記事は…
資料第壱号「アスファルト及びその應用」
資料第弐号「日本アスファルト物語」

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