「今の防水業界がこれでいいのか」「いい仕事をすること、社会的貢献をすることと、防水工事で利益をあげることは両立すべきだ」と考えるあなたに!

日本の防水の原点を求めて「燃土燃水献上の地・黒川村」へ

日本の防水の原点を求めて「燃土燃水献上の地・黒川村」へ

pokopoko
シンクルトン石油記念館の周辺ではあちこちで天然ガスが浸み出し「ポコポコ」音を立てている。

油坪
原油が浸み出す油壺。毎年ここから採取され、近江神宮に献上される。

シンクルトン
記念館担当の伊東さん。

伊東さんが3年前(2007年)「新潟県石油産業遺産の活用を考える」シンポジウで胎内市代表で報告した資料を紹介します。

―石油産業近代化遺産を活かしたまちづくり―

新潟県胎内市  黒川油田
胎内市教育委員会主任 伊東崇(いとう・たかし)

新潟県胎内市の沖合い4㎞の所に海上油田「岩船沖油ガス田」が現在も稼働しており、海上にそそり立つ煙突からは独特の炎が燃え上がるのをみることができる。遥か太古の時代から現在まで、原油と人々あ関わってきた歴史がここ胎内市にもある。

  1. はじめに
    胎内市は新潟県の北部に位置し、旧黒川村と旧中条町とが合併してできた人口3万4千人弱の新しい市である。海から山まで豊かで変化に富む自然を有し、縄文時代から人々は豊かな自然資源を利用してきた。
    黒川油田は、古くは688年天智天皇の時代から昭和55年まで営まれた日本最古の原油献上油田といわれ、その場所は日本海東北自動車道の終点、中条ICから国道7号線を北へ車で15分ほど走らせた旧黒川村山間部の閑静な森の中にある。現在は黒川石油公園・シンクルトン記念館として整備されている。今回は黒川油田における、石油産業近代化遺産を活かしたまちづくりについて考えていきたい。
  1. 黒川油田の歴史
    黒川油田は今から1300年以上前の688年、日本書紀に「越の国、燃える土(アスファルト)、燃える水(原油)とを献ず」と記され、ここ黒川をふくめた越の国から原油を天智天皇に献上したことを伝えている。黒川村の「黒川」という地名も、ここに原油(臭水:くそうず)が湧き、川を染めてていたことに由来するといわれている。黒川の油田が歴史上に初めて登場するのは、1277年の古文書(高井道円譲状)や同時期の絵図(奥山荘浪月条近傍絵図)にある「くさうつ」「久佐宇津」にみられる地名である。
    江戸時代になると黒川の臭水に関する記録が多くみられる。①元和7(1612)年村上藩主堀丹後守直寄の臭水寄進、②正徳3(1713)年『和漢三才図会』に於ける天智天皇7年燃える水献上地黒川の推定、③天明6(1786)年橘南谿『東遊記』に於ける越後七不思議の一つとして、④文化3(1806)年の『越後巡見記』によるカグマによる採油の記録、⑤文政2(1828)年の『産業事蹟』にみられる黒川臭水の江戸での販売などがあげられる。当時臭水坪は50ほどあり、臭水は灯明用のほか、農地の防虫、川舟の防水などに使われた。
    1. 明治における黒川油田の開発
      江戸時代まで臭水坪の拡張や水平堀による採油方法を続けていたが、明治6(1873)年、イギリス人シンクルトンが黒川に訪れ、手掘りの井戸に木枠をはめて掘る方法を伝授した。この原油含有層まで安全に掘り進む井戸が成功したことにより黒川に手掘り井戸が成功したことにより黒川に手掘り井戸が一気に増え、一定量の原油採掘を可能にした。このシンクルトンの指導で掘られた井戸は「異人井戸」と呼ばれ、今でも石油公園に残っている。その後、明治9(1876)年のアメリカ人ライマンの調査や、塩小路光孚(しおのこうじみつざね)が中条町に黒川の臭水を利用した鉱油所をつくり日本最初の灯台用石油として販売したが、その後の乱掘などにより黒川油田は明治20年頃に一時減少し、明治26年頃から効率的な上総堀や機械堀りを導入して採油量を盛り返したが、やがて減少し、明治の終わり頃には衰退していく。
    2. 昭和の最盛期と衰退
      昭和13年頃から北越石油(株)、中野鉱業(株)、越後石油鉱業組合などが採掘し、また昭和16年頃から帝国世紀油、大同石油など大企業の本格的採油により無数の石油掘削櫓が建ち並ぶようになり、昭和17年頃黒川油田は最盛期を迎えた。当時、塩谷から平木田駅までパイプで原油を送油し、日石新潟製油場まで運ばれた。昭和19年太平洋戦争中、工兵隊が黒川小学校に駐屯して、黒川坂下で原油を採掘、昭和20年頃には胎内川沿岸で帝国石油、日本石油が採掘した。戦後は吉川石油が採油を行っていたが、昭和30年頃から産出量も不足し、外国輸入が増加したことから衰退していく。昭和34年~52年まで地元黒川小学校の給食燃料に、また漁船燃料として使用されたが、昭和55年頃には黒川油田は終焉した。
  2. 黒川油田の保存と現状
    黒川油田の終焉により、一時は100箇所近くあった石油採油櫓や井戸が次々と解体された。平坦地は水田耕作などによりすべて撤去され、山間部の堅井戸などもすべて埋設される運命であった。しかし地域の人々がこの消滅する油田跡が歴史的遺産として大切なものであると認識し、また地域を潤し、黒川村を発展させたことに対する黒川油田への恩返しとして、保存し、後世に伝えていくこととなった。山間部の堅井戸跡や、油坪などは地権者と協議し、黒川村で管理し、整備することとなった。
    昭和12年の金塚友之丞氏の研究や、その後の地元地域の人々の研究や保存意欲により、昭和53年に臭水油坪が黒川村の文化財に指定された。昭和55年には黒川油田に関する資料を展示した黒川村郷土伝習館(現胎内市黒川郷土文化伝習館)が開館し、現在も油田の歴史を模型や写真で紹介している。昭和58年には錦織平蔵氏により『燃える水 燃える土 献上地の研究』がまとめられた。その研究成果が滋賀県近江神宮にも認められ、この年近江神宮の「燃水祭(ねんすいさい)」に招待され参加し、以後黒川でも毎年7月「黒川燃水祭」を実施するようになる。このように地域で産業遺産の保存や伝承が進められていった。
  3. 原油の特徴と独特の採油方法
    黒川油田の原油は黒褐色で粘調、比重0.920の重質で、戦時中は主に潤滑油に使用された。油と噴出するガスはメタンが主成分で二酸化炭素を多く含む。
    黒川村では、含油層が地表近くにあるので、臭水が自然に湧き出て窪地に溜まるという地形上の特色がある。この窪地はむかしから「坪(つぼ)」と呼ばれてきた。それぞれの坪に名称がつけられ、黒川石油公園にあるものは岩坪と呼ばれた。坪からの採油にはカグマを使った黒川村特有の方法を用いた。カグマは常緑性のシダ類を束にして乾燥させたもので、これを坪にひたして水面に浮いた臭水を採り、手でしごいて桶に臭水を溜めていく臭水採油用の道具である。この黒川独特の採油方法は機械掘りが行われた昭和20年頃まで続いた。
    江戸時代には黒川の人々は、原油は神からの授かりものと考え、村の共有産物として村人全体で協力し坪をつくり油の管理をした。明治以降は個人または組合の小企業が採油し、農家のサイドワークとしても採油が行われた。昭和に入っても大企業が参入するまでは、組合で決められた日に採油が行われた。地下水位が高いため、井戸を掘る際に地下に掘った横マブという排水溝も特徴といえる。
  4. 施設の概要
    1. 黒川石油公園
      昭和60年に黒川石油公園が黒川油田跡地の森の中に整備された(面積 8,250 ㎡)。公園内には明治期にシンクルトンが指導して掘った堅井戸や、排水溝、それ以前の古い油坪などが保存され、黒川油田の繁栄を示す建造物として、石油掘削櫓を模したシンボルタワー、東屋、遊歩道なども設置され、採油用のカグマを栽培する展示畑もつくられた。公園内では現在も天然ガスがポコポコ吹き出る様子や、池や井戸から臭いを漂よわせながら湧き出る原油をみることができる。この黒川石油公園が整備された年、アラブ首長国連邦駐日大使が黒川石油公園を訪れ、またその3年後、黒川村長がアラブ首長国連邦に訪問し国際交流を深めている。平成4年には黒川の臭水(4,822㎡)が新潟県の天然記念物に指定され、さらに平成6年には考古学的な価値が認められ国の史跡に指定された。
    2. シンクルトン記念館の概要
    • 建設年次:平成8年
    • 建設費用:158,000千円
    • 事業名称:新山村振興農林漁業対策事業
    • 建物構造:鉄筋コンクリート造1階建
    • 施設内容:第1展示室 石油資料館、第2展示室 ハイビジョンシアター
      室内展示の概要は、古代~現代までの臭水と共に生きた人々の歴史を紹介。石油関係民具の実物展示、イラスト・写真・模型などにより展示、説明をしている。はハイビジョンシアターでは臭水と人との関りを学習体験できる。またこの地方独特の臭水の採油方法や、黒川燃水祭の様子も紹介している。入口ロビーにはアラブ首長国連邦児童絵画の作品も鑑賞できる。過去の歴史だけではなく、石油の現在、さらには未来の地球環境の認識も深めてもらうような展示がされている。
  5. 活用方法・取り組みについて
    シンクルトン記念館、黒川石油公園は現在市直営で管理・運営している。当初所管については、旧黒川村では商工観光課が、町村合併し胎内市となってからは教育委員会生涯学習課が所管し、文化施設として位置づけている。平成18年には文化施設8館の共通利用券をスタートし、相互利用を図っている。
    臭水油坪が国史跡「奥山荘城館遺跡」の一部であり、旧黒川村、旧中条町、旧加治川村にまたがる事から史跡めぐりなどを広域的に行ってきたが、黒川油田の活用で最も大きいものは次にあげる「黒川燃水祭」と、市で取り組んでいる「胎内型ツーリズム」での活用である。
    1. 黒川臭水遺跡保存会の取り組み
      「越の国より燃える水を献上する」という日本書紀の記録をもとに、毎年7月1日に、古式にのっとった伝統儀式「黒川燃水祭」が地元保存会と市により黒川石油公園で開催されている。保存会のメンバーは、かつて地元で採油に関わってきた人々が中心である。この黒川燃水祭は昭和58年から実施され、石油業界関係者、地域住民、市内小学校など毎年100名以上が参加し、「採油の儀」、「点火の儀」、「清砂の儀」など一連の伝統儀式を実施したあと古代装束をまとった保存会メンバーが街中で献上行列を行う。また黒川で採油された燃える水(原油)は、7月7日に天智天皇が祀られている滋賀県の近江神宮の献上され、引き続き近江神宮で燃水祭が執り行われる。
    2. 胎内型ツーリズム(教育旅行資源として)
      市内学校による「ふるさと体験学習」や県外都市生活者、学校による宿泊体験プログラム「胎内型ツーリズム」の中で黒川油田は活用されている。施設所管の教育委員会と「胎内型ツーリズム」を担当する農林水産課が連携して地元農家の宿泊なども斡旋した事業を進めている。東京などからの修学旅行のコース、海外留学生の体験コースなどにも組み込まれており、訪れた生徒は黒褐色の原油が湧き出る池や、地上からのメタンガスの噴き出る音を聞いて「こんな所が日本にあったのか」と驚いている。黒川独特の採油道具「カグマ」づくりや、カグマによる採油体験、火起し器を使用した臭水の点火体験なども実施している。
  6. おわりに
    以上、黒川油田の歴史、活用の様子を簡単に紹介してきた。シンクルトン記念館は開設以来12年が経ち、この間見直し計画が何度か検討されてきた。これからも参加者が記念館に何を求めているか常に把握して、石油が昔から現在まで国民全体の貴重な資源であることを理解していただくよう努力していきたい。また今後も、遺跡の保存環境に注意を払いながら、関連資料の収集に努め、地域文化の集積、発信拠点としていきたい。
    町村合併して消えて行く地名、合併したことにより改めて「黒川」の名前を大切に想うようになり、黒川地名の由来となったこの油田を保存することの重要性を感じている。
  • 引用・参考文献
    • 日本石油(株)(1958)『日本石油史』
    • 黒川村誌編纂委員会(1959)『黒川村誌』
    • 長誠次(1970)『本邦油田史』石油文化社
    • 黒川村教育委員会(1991)『黒川病院建設計画地域の遺跡分布調査結果報告書』
    • 帝国石油(株)帝国石油社史編さん委員会(1992)『帝国石油50周年史技術編』
    • 片野徳蔵(1996)『やさしい郷土史 黒川村発展のあゆみ』
    • (株)郷土出版社(1998)『図説新発田・村上の歴史』
    • 日本石油(株)日本石油精製(株)社史編纂室(1988)『日本石油百年史』
    • 黒川村のあゆみ編纂委員会(2005)『黒川村のあゆみ閉村記念誌』
    • 新潟市(2008)『新 新潟歴史双書3 石油王国・新潟』

2010/12/12(日) 09:02:24|ARCHIVES|

powered by Quick Homepage Maker 4.8
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional